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「宗教哲学」を読んでー信じる、読み返す、結び直す

 ジャン・グロンダン著、越後圭一訳の『宗教哲学』を読んだので、感想を書き留める。

 

本書について

本書は、宗教哲学に関して論じた様々な思想家、宗教家、哲学者の論を時系列に沿って網羅的に繋げたものだと捉えることができる。何らかの宗教を信仰している人にも、何も信仰していない人にも、一定の新たな知見をもたらす本だと思う。読むと、宗教は一概に全面的に否定できるようなものではないこと、科学と宗教、哲学と宗教の対比と共通点、宗教の持つ本来的な力について考える助けとなるだろう。
 

私と宗教といただきます


私自身は無宗教である。否、一応家の宗教として何らかの宗派の仏教に所属していることになるのかもしれないが、少なくとも自らの宗教に自覚的でない。そんな私の状態は、この本で紹介されているトマスのいうところの「非宗教」の極端にあると言えるだろう。ちなみにもう一方の極は「迷信」であり、中庸が宗教の徳、正しい信仰ということであるようだ。アリストテレス的である。さて、先ほど私は自らを「無宗教」であると記述したが、実は単純にそうとは言えない。例えば私は、食事の前に「いただきます」という。これは学校や保育園での教育の成果ではあるが、しかし食事に際して行う儀式としてもとれる。この「儀式」は何のために行うのか?本書を読んだ後の私の解釈としては、これは自らと神を結びつけるための、あるいは結び直すための儀式である。神、と言ったが、これはキリスト教的神、八百万的神、こういったものというよりは、むしろ最高善としての概念的神、つまり宗教における様々な諸要素をはぎ落した後に残るものだと考える。様々な神話や逸話が諸宗教において存在するが、重要なのは「神の行いは絶対的に善である」とするものである。これは、そもそも神という概念が絶対的善なるものという定義である。そしてそれこそが、宗教というものの前提になければならない。仮に神が絶対善でなければ、それは不完全なものへの信仰ということになり、それすなわち「迷信」である。本書の中で、「宗教とはなんども読み返すもの」といった意味合いの文章がある。その厳密性において、正しい宗教が存在しうる。そして、正しい宗教を追求していくにあたって哲学的方法というのが有効なのである。というかそもそも、絶対善を求めようと哲学をしていくような節もあるので、哲学と宗教はかなり近い場所にいるのである。話が随分横にそれた。要は、私の行う「いただきます」の儀式は、その絶対善との結びつきを求める上で行われるものであると解釈した。

終わりに

正直に白状すれば、私はこの本を全てよく理解したわけではない。まだよくわからない文章や概念が多くある。だが、少なくとも一歩二歩、宗教という者に対する理解は深まったのではないかという感覚がある。個別の宗教についてはまた別だが。現代社会に、真の宗教と言えるものがどれほどあろうか。忌避せずに真正面から向き合うことで得られるものもあると、本書を読んで思った次第である。




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