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死に接近する文化

久々に外岩に行ってきた。でかい岩を登りまくってきた。ボルダリングというのはそもそも、そのスペルがBoulder(巨岩,石ころ)ingであるように、岩を登るものである。それの模倣から派生したのが現在流行っているボルダリングジムであり、たなかが週に3回くらい通っているやつである。

そしてこの前、3年ぶりくらいにほんとうの岩を触りに行った。御岳という都内にある山で、さまざまな岩があり、さまざまな課題(岩に見出された登るコースのことを指す)が存在する、ビギナーにもおすすめのエリアらしい。

新宿から電車で2時間かからずに行けるので、アクセスはかなり良好と言えるだろう。なぜか仲良くしてくれてるクライミング日本代表選手の土肥圭太くんが案内してくれた。神すぎる。

実際の岩こんな感じ

川沿いにある忍者岩でいくつかの課題を登ってきた。課題にはグレードというものが存在し、~1級、初段、二段~みたいな感じで難易度が振り分けられている。触ってきたのは1級、初段、二段らへんである。岩に触れてまず驚くのがその冷たさである。12月の空気に冷やされた巨大な岩の、その凸凹した表面を握り込んで(持てる場所のことをホールドと言う)、小さな突起に足を乗せて、ただ上に登っていく。それがボルダリングのすべてである。

岩のてっぺんのホールドを取ったあとに、体全体を岩の上に持っていく動きがある(マントルを返すと呼ばれる)。ここが怖すぎる。登っている途中は、極端に言えば両手を離せば足から真下に落ちるだけで、マットもあるしそこまで危なくはない。しかしこのマントルの時は、岩の側面から岩の頂上に移行する時間、体が宙に浮いているのだ。ここで手が滑って落ちてしまえば足からでなく顔から地面に落ちたり、大きく後方に投げ出されてしまったりする。大げさに言ってしまえば、マントルの不安定な数瞬は、生と死の中間地点にいる。そのあわいを彷徨い、乗り越えていくのがボルダリングなのである。

これは端的に言って、愚かな行為である。なぜなら登る必要がどこにもないからだ。たとえばその岩の上にしかない木の実を採りにいくのであれば、理解できる。食糧は生存のために必要だから、危険を冒してでもその岩を登る意味がある。複数のリスクを天秤にかけて、生きるために登る。ハシゴを作れるようになればもっと安全に採れる。ということはつまり、

道具を使って死から離れること、これが文明の本質である。

炎によって人は夜の獣から距離を取ることに成功した。あるいは肉を焼いて食べられるようになった。食中毒の危険からも逃れられるようになった。電気を使うことで獲得した安全に目を向ければ、もう列挙することすら難しい。死から遠ざかる。暗い夜道を通らない。街灯は僕たちの暮らしを照らし、安らぎをもたらした。

そういう世界。

一方で、なぜか死に直面するような行為に僕たちは駆り立てられる。つまり、でけえマットを背負って、バカ寒いなか電車を乗り継ぎ、川沿いの岩に向かっている。すぐ横を流れる川の音が、寒さをさらに掻き立てる。鳥肌。

だけど楽しいのだ。というか、だから楽しいのだ。困難な課題に向き合い、時には手から足から血を流しながらなんども岩に取りつき、一手ずつ高度を上げていく。当然上がれば上がるほど恐怖は増す。本能がこれ以上登ることを拒絶する。だけど登るのである。そうして頂上に手をかけた時、最後にやってくるのがマントリングである。足を高く上げて、体全体を岩の上に移動させるこの瞬間。これは人生そのものである。死の恐怖に直面しながらも、全身に意識を行き渡らせ、自分の体をコントロールして思い描いた通りの動きを行う。そして完登する。岩の上から眺める景色は忘れようもない。体が覚えている。登り終えてはじめて、自分の息が上がっていることに気づく。生き延びたことに安堵する。そして次の課題に触りはじめる。

「クライマー返し直上 初段」

無駄こそが文化であるとはよく聞く言葉だが、もうすこし追記したい。つまりこうだ。無駄に死に接近し、乗り越えることが文化である。滑り止めの粉状のチョークをたっぷりと手につける、それでもざらついた冷たい岩が指に刺さる痛みは鮮やかで皮が裂けてしまいそうになる。ハシゴをかければ容易に登れてしまうその岩。わざわざ登るその岩。そこに文化が宿る。

その他の文化と呼ばれるものもだいたいこんな感じであるように思う。わざわざやる。漫画家はわざわざ紙に毎週20ページ命がけで絵を描きまくるし、読者もそれを読んでワクワクする。ルフィと共に強敵に挑み、時には敗北しながら、最後には死を克服して勝利する。

あるいは告白。想いを好きな人に伝えてしまって、決定的に変化する二人の関係。その瞬間に曖昧な友人としての二人は死に絶え、新たな関係を生きはじめる。恋人として共に生きるか、まったくそうはならないか。それも死の克服であるだろう。

わざわざ苦い液体を海外から輸入したコーヒー豆から抽出して飲み干すこともまた、文化である。その苦味は死のメタファーで、口に残る風味を楽しむ。それは生存を舌で転がすことであるように思う。茶人の友達が言っていた。戦国時代は敵対している武将同士が一堂に会し、とてつもなく濃い抹茶(濃茶)を共に飲んだらしい。それは一緒に毒を飲み干すことで信頼を示す儀式として存在した。茶事が持つ無数の、ともすれば無駄と思われる手続きの連続も、その重大な儀式性を鑑みれば当然に思える。お作法。

そんな風に文化と文明の違いに思い馳せながら今日も岩を登る。そしてお湯を沸かし、コーヒーを淹れる。心地よい苦味が喉をすべり落ちていく。また死を克服する。



寿司が食べてえぜ