ナンパをうらやむ心理:田中編

ごくプライベートな情報なので、汎用的な知見共有のサイトであるnoteに書くには似つかわしくないのだけれどもブログとか持ってないのでここに書く。ポエムである。

ナンパされたい。一方的に思いをぶつけられたり、能力に期待されたりといったことは経験してきたし、それをされたいとは思わないけれども、ナンパについては別枠でなぜかされたい。これらの違いを考えてみた。本質的には両者同じで、表面的には、知的好奇心か労務の押し付けかという違いがあるのではないかと思い至った。ナンパは質問から始まるのに対して、後者は請求とか要請から始まる。

質問とは思考、人格への興味なのである。友情やら愛情は、能力に発生するのではなく人格に発生すると表現するとしっくりくるのではないだろうか。動物的、人間的というくくりで考えてみると、動物的な要請のために、性愛、性欲は遺伝子的に有利になるように能力に対する期待に依存していて当たり前と考えられるが、友情やら愛情は人間的な要請=人格、思考への興味と当てはめられる。要するにナンパは人間的、能力への期待は動物的、と、字面的、直感的理解とは逆転する表現を得ることができる。

以上を踏まえると自分が何を求めているのかがおのずと表出する。人格、思考への興味を向けられたいのである。自分が欲しいのならまず人に与えることが重要である。だから私は仲良くなりたい、もしくは仲良くなるべきである相手の行動や発言に対して質問をよくする。ここで問題が起こる。世間一般では質問は詰問であり否定であるのだ。

子供に対して怒ってる大人は言うだろう「どうしてこんなことしたの!」と。クソである。怒っている大人はどうしてそれをしたのか知りたいのではなく、ただ責めたいだけ、怒っていることを主張したいだけなのである。ゴミカスである。このくそ文化のおかげで人類は知的コミュニケーションを一部の高尚な集団にしか許さなくなるのである。

ゆえに私は動物的コミュニケーションから始めなければならない。質問をやめよう。そして他人の能力を誉め、自分の能力を高め、アピールする。私は優秀であるぞと。さあ限界譜面をやろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?