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うまくなくてもいい

描き始めは手が痛いのでいつもより線が揺れる。おお、なんだか達人っぽい。痛みくらいで揺れてる時点で達人ではないのだが。

そもそも絵描きは達人でなくてもいい。好きに描いてればいいんだ。世の中には自分より絵がうまい人は山ほどいるし、うまい絵を期待してる人はそんなにいない。いいなと思える絵が描けたらそれでいい。なんなら思えなくてもいい。

描きたいなあという気持ちが大事なのだ。

だから自分らしさや個性を求めて苦悩するのも、もったいない。無駄ではないけど、たぶんあまり意味はない。きっといつかわかる日がくるから、好きに描いていればいいし、描きたいものがなければ描かなければいいんだと思う。(ただし仕事の場合は別。笑)

無理やり作ったらしさは無理やり作ったっぽいものになるし、無理してる分、自分が苦しくなるだけなのだ。それはやっぱりもったいない。

下手でもいいから、もし描きたいことや表現したいことがあればやってみるといい。だれにも見せなくてもいいし聴いてもらわなくてもいい。そういうときにかぎっていいのができるかもしれないから、見てもらいたくなったら見せたらいいし聴いてもらえばいいと思う。

ぼくは小学生のころ、ゴッホやピカソの模写をするのが好きだった。たしか3、4年生くらいのときに郵便配達人ジョゼフ・ルーランの絵を描いた。それがとってもうまく描けて、ゴッホってすごいなあと思った。真似するだけで自分までうまくなれるなんて、この絵を描いた人はなんてすごいんだって思った。

ピカソも大好きで、この人の目線で銅像を作ろうと思って、目が飛び出してて、鼻と頭が長くて、出っ歯で口の大きい変なブロンズ像(本物のブロンズじゃなくてブロンズ粘土)を作った。キュビズムを履き違えたその作品はしばらく家の玄関に飾ってあったけど、めちゃくちゃ不評だったと思う。数年後、裏庭で放置されてたことがその証拠だ。灯篭の代わりにおいたんだよと言われてもぼくは信じない。雨で半分溶けていい感じになっていたが、今はどうなったんだろうか。

きっとどちらも今はもうないけど、ぼくの心にはしっかりと残っている。その時の好きという気持ちが今もちゃんとある。だからずっと描いてられるんだと思う。

自分の絵もだれか好きになってくれてたらいいな。個展をするとその瞬間に立ち会えることがあるから、ぼくはもう中毒のように個展を開く。揺れた線で描いても、誰かの心が揺れるような絵になるかもしれない。そう思うとやっぱり描かずにはいられない。明日は左手で描いてるかもしれないね。

5年前講演会をした時のこと、小学生のころから個展に来てくれていた女の子が、しんさんと出会ったから画家を目指してるんです、今は美大生ですって言ってくれたあの子は今どうしてるかな。あの日以来会ってないけど画家になれたかな?

いつか悩んでしまったら、これを偶然見てくれたらいいな。




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