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多様性は大事、だけどそれを理解できている自信がない

知ってはいるし、大事だと思っている。けれど、本当に理解しているのか自分に突きつけると自信がない。そんな言葉やテーマがいくつかある。

そのひとつが、「多様性」だ。

私は基本的に「多様性は大事だ、無くてはならない!」と思っているし、多様性のない世界はやばい、と考えている。
でも、「多様性のある世界」が本当にどういうものなのかわかってるわけ? と問われると、うーん、ちょっと自信がない。

多様性とはいろいろな属性の人、考えの人がいること。「それぞれ」「いろいろ」が混ざり合っていること。
ざっくりそんなふうに考えているけど、果たしてこれが自分の言葉になっているのか、身体的に実感があるかというと、きわめてあやしいのだ。なんでかというと、「これぞ多様性」という環境にいたことがないからだ、と思う。

鹿児島の閉鎖的な古い家(左利きを矯正されたり、上に倣えの家庭方針だったり)、幼稚園から中学校まで国立校、そこから多くの友人が進学する高校に入り、東京の大学へ。そして基本的に本が好きな人が集まる出版業界へ。鹿児島人に囲まれ、日本人に囲まれ、出版人に囲まれ——。

こうしてずっとずっと同質性の高い場で生きてきたから、「多様性が大事って、アンタそういう環境にいたことないやん」と言われたら、すみませんとしか言いようがなくて。多様な人たちと「暮らす」とか「働く」という地に足のついた経験はないから。マイノリティになった経験もないから。世の中のみんなは、そこらへん、自信があるんだろうか。

——昨夜、四谷三丁目の居酒屋で焼酎のお湯割りを飲みながらそんな話をしていて(一応打ち合わせです)、ふと思った。

そういう環境で生きてきたからこそ、多様性は守らなきゃいけないもの、意識しなければ失われるもの、だから絶対に大切にしなきゃって意志が自分の中で働いてるのかなと。同質性を心地よく感じる人、非寛容な人の気持ちもわかる、それはそれで大切なことかもしれないぞ、と。

だって、多様性を本当には理解できていない人は、きっと社会にも多いから。いまの私のような中途半端な人間にも役割があるんじゃないのかな、と思ったりしたのだった。

いま、APU学長日記という連載を担当していて、学長・出口治明さんの芯から多様性を愛する姿勢、そしてAPUの多様性そのものの環境に触れる中でちょっとコンプレックスに思うところもあったのだけど…。
引け目に感じるばかりじゃ仕方ないし、自分が理解できていない(かもしれない)ことを受け止めて、ちゃんと勉強したり、同質じゃない場所に飛び込んだりしていこうと思った。それはいまからでも遅くないはずだから。

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