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50年前三軒茶屋で新聞配達していた青年はドンキーコングと時代を作った

羽田に着いたのが23時近かったことと、体力を無視して遊びまわり多少疲れを感じていたことから、「明日から節約しますので」と何かに言い訳しながらタクシー乗り場に並んだ。

わたしのターンでやってきたのは個人タクシーの、おじいちゃん運転手。道でつかまえるときなんとなく個人タクシーは避けるけれど、タクシー乗り場でパスできるほど神経は図太くない。「何事も起こりませんように」と小さく祈りながらトランクにキャリーケースを乗っけてもらい、住所を告げる。「もし寝てたらスーパーのある角を曲がるタイミングで起こしてください」と付け足すと「わかりました……そこらへんは、目をつむってでも走れます」とおじいちゃんが微笑んだ。

そうなったらもう、眠くて仕方ない目を見開いてでも「なんでですか?」と掘りたくなる、それが取材者だ。

「ちょうどお客さんの住んでる丁目が、新聞配達の担当だったんです。大学4年間ずっと。おおきなマンションがひとつ建った以外、あそこらへんはまったく変わりませんね」

へええ。たしかにそれは勝手知ったる、だ。何年前の話ですか?

「ええとねえ……うーんと……50年前、ですね」

運転手さん自身もおどろいたように言う。わたしも「半世紀!」と歌舞伎の大向こうのように声を挙げてしまった。新聞奨学生で、新聞配達をするかわりに学費が免除になったんですと誇らしげだ。

「新聞配達って朝、はやいですよね。飲み会とか行かなかったんですか?」

愚者の問いに、運転手さんいやいやと首を振った。

「あんまり好きじゃなかったんです、そういう場が。誘われて年に3回行くかどうかじゃなかったかな。なんといっても3時起きですからねえ毎日」

仕送りに甘んじて高田馬場でへらへらと「『和民』と『わたみん家』はどっちがおいしいか」なんて盛り上がっていた自分とはえらい違いだ。

運転手さんは、あまり当時のことを語り慣れていないようだった。「そういえば……」と記憶の箱のふたがじりじりと空いたり「あ!」と当時の映像がぱっとよみがえったり、という瞬間が何度もあった。

「太子堂一丁目に住んでいて……いま思い出したんですが、1月2日と3日に連続で火事があって一面焼けたんですよ。靴の『ちよだ』の裏、いまのマクドナルドあたり。それでいったん全部壊してきれいになって」というふうに。こういうとき、うれしくなるのはやはり取材者だからだろうか。

運転手さんは就職してからは駅の反対側、野沢に引っ越した。三軒茶屋に慣れてたから。70年代に大卒ということはとくに30代、景気よかったんじゃないですかと訊くと「それはもう」とおおきくうなずいた。

「おかげで忙しかったですよ。朝イチの飛行機で台湾に飛んで、すぐ戻って滋賀に寄って、次の日の朝9時には八王子にいましたねえ。いまで言うIT業界で……チップ、板の設計をしていたんですが」

基板のエンジニアさん、ということだろうか。まさに「これから」の業界、それはお忙しかったことだろう。

「NECのPC-98ってわかりますか、有名な。ああいうのに携わってました。あとアーケードゲーム機のチップの設計もしましたね。『ドンキーコング』とか、これくらいの大きさで」

左手をハンドルから浮かせ、親指と人差し指で10cm強を示す。専門用語は多いし説明しなれていないし、そもそもこちらも知識がないので理解が追いつかないのが歯がゆい。

その話の中で基板をめぐるとある裁判の話をしてくれたけれど、調べても見つけられなかった。インターネット上に記録がないのか、運転手さんの記憶があやふやなのかはわからない。

ただ、そのときの彼の言葉にわたしはぐっと来た。

「いわば、機械の中身に権利が生まれた時代なんですよ。我々がはじまりだった」

たしかな仕事をしたんだというプライド。ずっしり詰まったあんこのような時間の重み。「我々」という言葉のどうしようもないかっこよさ。ある面において静かにゆるやかに世の中がよくなっていくさまを目撃した気持ちになり、どきどきした。

しかし運転手さんはその後、人事部に異動になった。バブルが弾けたときに人員整理を担うこととなり、数十人のリストラをおこなったのだという。それがとてもつらくてサラリーマンを辞めた。そしてタクシーに乗りはじめ、わたしを乗せている。

= = =

50年前、新聞配達をしていた青年はおとなになり、伸びゆく市場のどまんなかでパソコンやゲーム、自動車、飛行機などの基礎を作った。

けれど、彼の名前が歴史に残ることはない。おそらくビジネス書や雑誌に載ったこともないだろう。もしかしたら、個人名どころか社名すらも日の光を浴びていないかもしれない。

それでも彼は生きて、流れる時代の中にいた。時代をつくった。社会というのはそういう人たちでできている。世間から注目を浴びている人やバイネームで活躍する人だけでなく、「未来から見た名もなき人たち」によって社会はすこしずつ前進している。

いわゆる「すごい人」に話を聞いたり、SNSやメディアで見聞きすることが少なくないからこそ、そんなあたりまえの事実に深い愛しさを感じてしまった。

羽田から世田谷区までの定額料金を支払う。世田谷区は広い。三軒茶屋と祖師ヶ谷大蔵で同じ値段なのは解せないなと思わなくもない。

けれど心はあたたかだった。現状、名もなき人のわたし。これから名のある人になるのかは不明だけれど、数十年後にたとえばバーで出会った若人が恋人に後日、「おもしろい話を聞いたんだよ、2020年代にライターとか編集してた人でさ。当時は……」なんて語ってくれたら楽しいじゃんって。

はたして眠気はどこへ行ったのだろう。「ありがとうございます、すごく楽しかったです」とお礼を言うと軽快にキャリーケースを引き、マンションのスロープに足をかけた。

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