「わたしの意見」を言うことが、「わたしの個性」をつくっていく

保育園にお迎えに行くと、若い保育士さんがむすめのいる部屋に向かってこう言った。

「○ちゃんママお迎えきたよ、コート着なー」

ん? と引っかかる。

「着な」ってふつうに使う言葉? だっけ? 小さい子どもに? あれ、わたし小うるさい? これがもんぺ……?

言い訳するようだけど、保育士さんに常に聖母のように接してほしいとは思っていない。それがコミュニケーションの正解とも思わない。その保育士さんの言い方が非常にけだるげなのも、引っかかった一因だと思う。けど、でも、日常で使わないような言葉遣いはどうなんだろう。

……と、こういうとき、わたしはあまりぐぐっと主観に入り込むことができない。0.5秒くらいで脳内にセルフ反論が飛び出す。今日のケースだと発言小町風反論だった。

「あらゆる人と接するのも社会経験でしょう。そんなことが気になるなら、仕事をやめて自分で子どもを見たらいかがですか??」

「あなたがはたらくために、税金が投入されているんです。保育士にどこまでお求めですか? あなたのような方がいるから保育士の数が足りなくなるのです」

(なかなかの再現性では)

さらに、いくつかの意見をだだだだだと思い浮かべる。というより、勝手に浮かんでくる。Twitter風だったりFB風だったり、リアルな友人(地元の子、東京の子それぞれ)だったり、尊敬する経営者だったり、ワイドショーのコメンテーターだったり……。

「このご時世、母親がはたらくことは特別なことではない。国を成長させるためにも女性がはたらく必要があるのだから、ただ託児するのではなくよりよい教育の質を求めるのは当然」

「そろそろ日本も、保育は教育の一環だと発想を変えるべき」

「こういう話を聞くと、保育にもっと株式会社が参入し競争がうまれるのはいいことだと思う」

「言語は文化だ。私なら、クレームじゃなくて園長先生にやんわり伝える」

複数の視点から、その事柄について立体的に捉える。その上で、「はて自分の考えはどこにフィットするだろう」と考えていく——。
なにか議題が立ち上がったときのわたしの脳内は、そんな感じだ。


という話をしたところ、「裕子はアーティストじゃなくて……そうだなあ、ディレクター気質なんだよ。たぶん、メタ認知能力も高い」と言われたことがある。

あ、みんながみんなこういう考え方じゃないのかと思いつつ、たしかにアーティストタイプの人は「こう考える人もいる」「こういう意見もある」なんていちいち考えなさそうだなと納得する。わたしはディレクタータイプなのか、なるほど。

……ただ、それでよしとも思えない自分がいて。ここ数ヶ月は、もう少し主観を大切にしなきゃいけないなと考えている。

わたしは、どう思うの。
わたしは、どうしたいの。
わたしは、なにを信じるの。

あまりに客観的な意思決定ばかりしていると、この「わたし」の力が弱くなってしまう気がして怖いのだ。

よくないのは、「結論:いろんな考え方があるよね」で終わってしまうことだ。情報と客観の人間になり、主観を失うことだ。ミーティングにおける「(どの意見もそれぞれ説得力があるから)むずかしい問題ですよね」という言葉のダサさは、きっとここにある。あなたの意見はどこにあるのさ、と肩を揺さぶりたくなるやつ。

客観ばかりを育てていたら、自分もそうなる可能性がある。だから小さな議題から大きなテーマまで、ひとつひとつ、「自分は」の暫定解を持つように意識しているのだ。まだまだ、咄嗟にはうまくできないけども。

その暫定解が、たとえクソリプの飛んできそうな意見であっても、「自分は」を表明できるひとでいたい。その意見の積み重ねが、「わたし」の個性をつくっていく気がするから。

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わたしもスキです
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田中裕子

コメント1件

そう、思考停止で「難しい」って、とてつもなくダサイんですよね。共感です。
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