わたしの大切な「ロマンティック」

金曜日は日帰り出張だった。スカイマークで福岡へ、また東京へ。前回飛行機に乗ったときはむすめを膝に乗せていて、それはそれはそれはそれは疲れたので、家から羽田空港への道、搭乗手続き、荷物棚にコートを突っ込むとき……とにかくすべてがラクすぎて「あと2往復はできるな」と思った。

(泣くな)

わたしは実家が九州かつそれなりに旅好きということもあり、人生でまあまあ飛行機に乗ってきたと思う。その中でとくに国内線にはマイルールがある。

それは、なるべく窓側に座ること。玄人は通路側を好むことを知ってはいるし、そのほうが出入りしやすいのは重々承知しているけれど、それでもいつも、迷わず窓側の席を選ぶ。

なぜか。理由はひとつ、窓際のほうが……なんというか、ロマンティックだからだ。

離陸。手を振っている整備士の方々。身体がシートに押しつけられ、地上が遠くなる。ぐっと旋回する、海が見える。雲に入る。抜ける。雪をかぶった山のいただきの連なり。遠すぎて流れは見えないけれど、山間で大きくうねる川。「人が集う街」と「人のいない自然」のコントラスト。

——こんな甘美で情緒的で感傷的な風景、なかなかお目にかかれない。多少の不便なんて、どうでもいい。仕事での移動であっても、この非日常は胸いっぱいに味わいたい。今回は福岡空港を20時過ぎに出発したのだけど、離陸後ぐるっと旋回したときオリオン座と満天の星空が見えて、「ああ」と声が漏れた。

そんな景色を見ながら、究極の「鳥の目」で視認できない地上の一人ひとりの存在の重さと軽さ、生活や人生について考えたり、光の下に広がる街や社会について考えたり。わたしにとっては、100本のバラやあすなろ抱き(古い)より、飛行機の窓側の席がロマンティックでたまらないのだ。

そしてこのロマンティックさは、わたしの感情のスイッチを全開にする。とくにいつものルート、東京—故郷・鹿児島間では。

そうなったのは就職してからだと思う。東京の出版社ではたらきはじめてから。鹿児島発のフライトで羽田に戻る道中、千葉の海岸線を眺め、海ほたるを確認し、キラキラ光る広い広い街を見下ろしながら「よし、またここでがんばるぞ」と気合いを入れるようになっていた。大げさに言えばひとり戦場に赴く気分で、毎度毎度昂ぶっていた。

でも歳を重ねるにつれだんだんと、羽田へと導く風景に「ただいま」と目を細める感覚が強くなっていった。「ここでがんばるぞ」の気負いがなくなり、いつの間にか東京は「おらが街」になっていた。

そして東京が「おらが街」になるにつれ、鹿児島のランドマークである桜島が近づいてくると、「ただいま」と同時に「現実の小休止」に近い感覚を抱くようになった。そのことに気づき、人間のベースが変わってしまったようできゅっと寂しさを覚えたり。

飛行機の窓をのぞき込みながら、自分の人生の軌跡を確かめるようで。そんなエモいことを感じられるのも、窓側の席の成せる業だ。

窓側は不便で、通路側は便利。それは間違いない。だけど便利で無機質より、不便でもロマンティックを選びたい。「実」をとりきれない、大人になりきれない、非合理的な自分。そういう部分はきっと、誰しもに少しずつあるんじゃないかなと思う。


はたして次のフライトでは、窓側に座れるだろうか。ロマンティックに刺激された自分の感情の動きを味わいたい、けれど……。
むすめよ、はやく一緒に窓からの景色を楽しめるようになろうね。

サポートありがとうございます。いただいたサポートは、よいよいコンテンツをつくるため人間を磨くなにかに使わせていただきます……!