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28週864gでの出産だったけれど「小さく産んでごめんなさい」と思ったことは一度もない

15年前、在胎28週で出産しました。体重は864g、超低出生体重児でした。およそ3ヶ月間のNICU入院を経て退院。退院後も直後は週1の頻度で通院、3ヶ月・6ヶ月・年1…と少しずつ間隔が伸びていき、10歳でフォロー通院完了し、現在に至ります。

その間、ほんの少しですが引っかかっていることがありました。
「小さく産んでごめんなさい」――同じような境遇のお母さんはよくそう言うらしいのですが、私は思ったことがない、ということです。
その「理由」について、以下に記します。

1.言っても(考えても)仕方がない事は言わない(考えない)から

 「言っても仕方がない事は言わない」元々そういう性格で、それを積み重ねた日常が「習慣」になっていました。
緊急入院直後から張り止めの点滴をずっとして、「まだ出てこないで」とお腹に話しかけて、それでも早々と産まれてきてしまった。もうしょうがない、親の私がしっかりしなきゃと、強く強く思ったのを今でもはっきり覚えています。
 そしてとても幸運だったのが、夫も全く同じ価値観だったこと。実はこのことに気づいたのは子どもが3歳位になって言葉で躾出来るようになってからでした。2人とも子供には「言ってもどうにもならないことは言うな」と教えていました。例えば「疲れた」は言って疲れがとれる訳じゃないからNG「疲れたから休みたい」は具体的な解決法なのでOK、という具合です。
 未就学児にはかなりのスパルタだったかな、と後から思いました。でも15歳の今、言っても仕方ないことを言わないばかりか、叶えたいことは作戦を練って父母を使い分けて具体的に提案してくる一面を見るに、正解だったと思います。

2.自分が普通に出来る、と思っていないから

 「小さく産んでごめんなさい」という気持ちには、「普通(の大きさ)に産めなくてごめんなさい」という思いが多少なりとも含まれていると思います。でも私はそもそも、普通のこと・人並みのことが出来ると思っていませんでした。
 実は私自身も、超はつかないものの低出生体重児として産まれてきました。そのせいか小学生時代は背も小さく、体力テストや50メートル走のタイムは標準を大きく下回っていました。
 「自分は ”ふつう” には遠く及ばない。特に身体のことは」。中学生になって急激に背が伸びてからもずっと、そんな風に思っていました。そして、そんなコンプレックスを抱えていたせいもあってか、人付き合いも上手くはなかったです。
 そんな自分が結婚出来てびっくり、妊娠出来て更にびっくり、そこに来た切迫早産…。まぁそうだよね、私だもん、仕方ない。
そこに「ごめんね」という気持ちが生まれる余地はなかったです。

3.言ったら、そうなっちゃうから

 子どもがNICUを退院した後も、上述したように総合病院へ定期的なフォロー通院がありました。うちの子は入院中に未熟児網膜症のレーザー治療を受けていた為、眼科でもフォローで診ていただいていました。
 そこではうちの子同様NICU卒業生の赤ちゃん、もしくは高齢の方がほとんどでした。診察前に瞳孔を開くために目薬をさす必要があるのですが、何せ相手は赤ちゃん。のけぞり泣きわめくのを、看護師さんと共同作業で点眼×3回。すると結構な確率で言われちゃうんですよ。

「あら。あんなに小さいのに。かわいそうにねぇ」

こっちも好きでやってるんじゃないんですけど。放っておいてくれ。
と思いながら通院していたのですが。
 通院を続けていくなかで、3歳を前に眼鏡をかける必要があると言われました。こんなに小さい子にメガネ・・「かわいそう」という言葉を喉元でぐっと押し込みました。
 だって、「かわいそう」って言ったら「かわいそう」になっちゃう。待合室で見知らぬ誰かに言われた時のように。親の私がそれをやってはいけない、咄嗟にそう思ったのです。

「小さく産んでごめんね」は、思いもしなかったし、だから言わなかった。
「こんな小さい子にメガネはかわいそう」は思ったけど、言わなかった。

状況はすこし違うけれども、「言ったら、その方向に現実が動いていく。だから望まない方への言葉は言わない」という意思は、共通していたように思います。

4.分からないことに、因果関係を求めない

「ごめんなさい」は、本来悪いことをした時の謝罪の言葉です。
そういう自覚は無いままに「ごめんなさい」を重ねていったら、「何が悪かったんだろう」という方に考えが進んでいってしまうと思います。
そういう状況は、代替医療や宗教に付け込まれやすくなります。

そういったものの全部を否定する訳ではないです。
きちんとメリット・デメリットを理解して、能動的な精神状態で選べるのであれば、その人の選択でしょう。

そうではなく、「これしか方法は無い」という実質選択肢がない状態で、形式的に「自分が選んだ」風にして「洗脳」していくのは問題です。
「何が悪かったんだろう」という状態で行くのは、洗脳する方にとっては、鴨が葱を背負って来るようなものです。

最後に ~「ごめん」と「がまん」は違うけれど~

このnoteは「ごめんなさい(とは思わなかった)」について書いています。
けれど「我慢に代わる私の選択肢」のテーマに応募しています。

「小さく産んでごめんなさい」この言葉を言っているのは、ほぼ100%女性です。それはもちろん「産む性」だから、という理由が大きいと思います。
 でも、それだけでは無いように思うのです。
「悪くなくても『ごめんなさい』と言い、弱き者を見たら『かわいそう』という言葉が漏れる」
そういったことが女性らしい、という旧い価値観がどこか影を落としているように感じるのです。
 その「ごめん」が「女性の我慢」に繋がっている気がして、このテーマでの応募といたしましたことを書き添えておきます。


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