宇野重規著『〈私〉時代のデモクラシー』と憂慮する私たち

いわゆる大学教授がTwitterで人を手ひどくこきおろし、素人インフルエンサーが皮肉を飛ばし、あらゆる権威への嘲笑に溢れる昨今、皆様どうお過ごしでしょうか。

本、読んでますか?私は全然読んでいません。

銃弾が飛び、陰謀論と感染症、物価上昇にいいねの数、高速フリックと共に変化する時代にモタモタと大学の先生が書いたハードカバーや新書を読むことに、いったい意味はあるのでしょうか?

素朴な感想を呟くと「そんなチープなものを有難がっているんですか?」とクソリプが飛んでくる今、本を読む意味はあるのでしょうか。

不安は絶えませんが、本を読むことと、率直な感想を述べること、私自身のために「考えることへのリハビリ」を行いたいと思います。

宇野重規著『〈私〉時代のデモクラシー』

(岩波新書 2010)

19世紀フランスの政治思想家トクヴィルの研究者である著者が民主党政権時期

近代化とは富の増加から、王や貴族、宗教、地域共同体の解体から始まり、何物でもない者たちが”自分たち”の問題を”自分たち”で解決するためにデモクラシー・民主政治が始まりましたが、今本当の意味で私たちは”私たち”を意識出来ているのでしょうか。

2021年4月丸亀市長選挙で「全市民に10万円を給付すること」を公約に当選した松永恭二という政治家がいます。

結論から言うと、財源が無く2021年6月に結局は3万円の給付と決定したそうです。たかだか2か月で手のひら返しをする厚顔、というだけの話ではなく、一人ひとりに3万円とか10万円を配ることが市民の役に立つのであれば、そもそも徴税はムダな作業でしかありません。

我々が税や社会保障費を支払うのは、自分個人ではどうしようもないリスクや社会問題をみんなでお金を出し合って解決するためであるはずです。本書のまえがきで宇野は「価値の選択を個人にゆだねてしまえば、社会とはその集計にすぎません」と鋭い指摘をしています。

この含意は社会全体を俯瞰して見る視座と、それを評価できる一般市民の教養を失くしてしまえば、国家とは”私たち”ではなく「私」の利益しか追わない集団でしかない、という事です。この選挙の結果とその結末は本当に好例だと思います。

ただ「誰もが平等である以上、”私”を最優先して何が悪いの」という見方もあります。”私”の苦しみや欲望は”私”しか分からないし、それを解決できるのは自分だけ、自己責任という見方です。

自己アピールを求められる”私”

「ジェンダーのみならずADHDやら発達障害や、はたまた国籍やバックグラウンドの差異について(人権の観点からも)”平等”である」個別の補足や注釈を別としてこの前提に疑問を差しはさむ必要はないと思いますが、一方でどんな特徴も誰もが平等にオンリーワンという矛盾を含んでいます。

誰もが平等にオンリーワンである以上、あなたは何が出来るの?どんな個性を持っているの?という視線に晒され、振る舞いを求められる

例えばマッチングアプリにしても、就職活動、転職活動、婚活にしても個人に突き付けられるのは、年収は〇百万円・年齢は〇歳、学歴という数字と属性が最初に来ます。その上で「あなたが何者であるか」を自分で定義して、アピールすることが当然のように求められています

交際相手はクラスの中、バイト先、職場のなかで選べば良いだけの時代から、フリック操作と条件検索で無数に取捨選択できるようになった結果、マッチングアプリに並ぶ異性の顔や、求人票を眺めるたびに、”私”とうまく行くのか、私ってどんな人間なんだろうという疑問に直面することになります。

サラリーマン、男性、若者、学生といった属性によって「社会の常識」「男はかくあるべし」「20後半の女はこうあるべし」といった押しつけから解放された結果、”私”存在はamazonや楽天の大量の検索結果を見るように「どれでも良いし選べない」

先の「”私”を最優先して何が悪いの」という想いに立ち返ると「みな平等であるのであれば、LGBTやADHDや発達など少数のお荷物への配慮にコストを配分するのは不平等ではないか」「今は薬とか手術とかで”生きづらさ”を解決する手段はあるし、自己責任なのでは」となってしまいます。

ここは理屈ではなく私の考えですが、社会から「社会」という言葉でイメージされる共同体や相互扶助を取り除き、市場経済と取引に基づく弱肉強食にデザインするのは実にカンタンなのですが、肉食動物しか生きられないサバンナは破滅するだけです。誰もが弱い立場になる可能性がある以上、矛盾や葛藤に向き合い持続可能性と美辞麗句の実現を目指すことにこそ意味があると思うので、そのために”私たち”の思考は手放せないと考えています。

一方で確かに私たちは承認欲求を求め、いいねの数を気にして、誰にフォローされ誰にブロックされているか、気になって

個人が持つ個性・私らしさの中に輝くものがあるとは限らないし「ゲームをプレイしながら面白い感想が言える」「可愛い声の社会不適合者」という個性が評価され、お金がもらえる時代になったのはつい最近のことです。それまではただの穀潰しとしてゴミでしたからね。

"私”の追求だけだと

これらが意味するのは彼らが愚かな陰謀論者だから悪い、という個人の理由だけでなく、政治や報道、権威に対する期待値のわりに、それが果たされない失望と思われます。

例えば2008年のリーマンショックとその不況により生活を脅かされた人からすれば「金融機関や住宅会社が欲望を煽り、人々が自らの意思で投機目的の過度の投資を推し進めた」という凡庸な原因より「闇の政府が庶民を食い物にした、その証拠に誰も逮捕されてない!」というストーリーのほうがより共感できるでしょう。もちろん、不足しているのは教養、という鋭い指摘もありますが、教養で全ての人の腹が確実に膨れる訳ではありません。

この平等意識と自己責任論、個人化による”私たち”の意識の低下、「”私”よりも不当に厚遇されている人」へのバッシング、公務員、生活保護の不正受給、私”を優先させた結果行きつくのは、憂慮と義憤から来る他者の排除です。

感染拡大時には若者や外国人がバッシング対象にされ、思い通りにならなければ皇族や芸能人まで叩かれて、自分がいつバッシングされるか分からない不安から「憂慮する」ことで不当に厚遇されている対象を作る。それはデモクラシーではなく、ただのパラノイア・ナショナリズムだと本書では語られています。

いま最も日本に必要なのは、政治の意味の回復ではないでしょうか。選挙の争点も選挙ごとに変わり、ワンイシュー選挙で毎年毎年政治家がその場その場で掲げる論点に票を投ずることで社会は良くなるのでしょうか。彼らが取り上げない問題が”私”に降りかかってきても無視される可能性に、不安は感じませんか?

本書ではドラッカーやジャン=ジャック=ルソーを引用しながら無暗に「私を抑えて公共意識を持て」というだけでなく、相互のリスペクトが互いの個性の尊重とデモクラシーを両立させ得ると説いています。他者からの共感を得るために公正な監視者を胸の内に持つことが重要だと。

反対に、そういった美辞麗句やお題目への無力感と失望から、冷笑主義やナショナリズムに傾倒する人こそ、自宅でチラシの裏に書くのではなく積極的にSNSに投稿し賛同者を募る行動を取って「社会」と”私たち”を求めていることからも、人はそう孤独にはなれないようです。

人とつながる便利な手法があふれる程に、孤独の闇は深くなっていきます。

SNSによって過去の発言が消えずに掘り起こされる時代に、自分の意見を曲げることは大罪のように晒上げられています。ただ、意見や人格、思想は社会と人との交流によって磨かれていくもののはずで、10年前と言ってることが同じ、というほうが問題に思えます。

タイトルに戻りますが、昨今の詐欺的インフルエンサーのように”私”の利益をだけを追求して人を食い物にし、自分以外の将来や共同体や産業、環境を考えない者はアイドルの現場で騒ぎを起こす厄介オタクのように社会を破壊していきますが、一方でそれを傍観して冷笑し、共同体なんて・政治なんて・オレ以外の事なんて、と失望した態度で冷笑し、顔のない集団に埋没して”投票行動”に類することすらしない人間もまた、破壊の一翼を担っています。

時には、一瞬でもいいので、自分以外の”私たち”のことを考える時間を持ちたいですね。気になったYoutubeチャンネルの高評価を押さないと、あなた好みの動画が減っていくよという話です。

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