校長先生と私
私の不登校経験を、取材して引き出していただくことはあれど、自分で書き残すようなことをしていませんでした。
不登校になったのは6才で、いまは31才。
私はだんだん大人になって、当時の新鮮な気持ちがどんどん薄れていくでしょう。もうすでに!!
だから、できるだけ記憶があるうちに、未来の自分がいつか人生を愛でられるように、残していきたいなと。
そうと決まれば、話さずにはいられない!
校長先生とのお話しを、書いていきます。
不登校にいけなくなった日
私は小1の2学期の1日目から学校へ行けなくなりました。
初日の朝の光景だけは、いまでも鮮明に覚えています。夏休み明けだし、「友だちに会える~」と思いながら身支度をし、朝ごはんを食べ、玄関で靴を履こうとしたとき、それ以上一歩も動けず、涙が止まりませんでした。
自分では何がなんやら。
「どうして涙が止まらないんだろう。どうして外へ出られないんだろう。」そんな気持ちでシクシク泣いていたら、後ろで母がびっくりしたように「どうしたの?具合悪いの?」と聞いてくれてハッキリ、「学校へ行けない」と言いました。
それを聞いた母は、単純に体調が悪いんだと捉えてくれて、すぐに「じゃあ今日は休んでゆっくりしよう」と家へ引き戻してくれました。すぐに自室のベットに潜った瞬間、安心しきっている自分に驚きました。
「え、私学校行きたくなかったん?」意識より先に、身体が教えてくれたんだろうなって思います。
その翌日から、「学校へ行きたくない」としっかり主張するようになりました。
不登校になった1・2年のときは、小学校とほとんど関わりがなかったように思います。(私の記憶では)しかし、小学3年に上がるときから、学校との関わりが大きく変わります。
そのキッカケは、新しく赴任してきた校長先との出会いでした。
校長先生(以下、みどり先生)が、私と、私の家族と真正面からぶつかってくれたこと、立場や肯定概念ではなく、私のことを第一に考えてくれたことが、もしなかったらと思うと、、、ゾッとします。
私が覚えている思い出は、断片的なものなので、大人になってみどり先生と再会したとき教えてもらった、当時のエピソードも交えて書いていきたいと思います。私めっちゃうれしそうな顔してるね(笑)
校長先生との出会い
みどり先生と再会したときに聞いた、当時の心境と私の様子です。
へぇー!そんなことあったのか!と驚くばかり。
私の横で聞いてた母は「そんなことありましたねぇ」って相づち打つもんだから、大人は記憶が鮮明でいいなぁと思いました。
これもへぇー!というか、私にとって意外なエピソードでした。
的確に言えてる自分すごい(笑)
母VS校長先生
なんとなーくの記憶なのですが、みどり先生といい感じで出会えたものの、私は当時フリースクールに楽しく通っていたし、学校には全く行っていなかったので、学校との接点はすぐに生まれなかったと思います。
そんな中でも、みどり先生はぐいぐい我が家に入ってくれました。
隣で母が「いや~お恥ずかしいわ~」なんて笑ってるもんだから、私も笑うしかない(笑)
母が人に感情をぶつけるなんて見たことない!って感じだから意外でしかなかった。
じーーーん。涙
私がいないところで、大人たちが色んな葛藤の中で頑張ってくれていた。
時代を超えて、こういう話を聞かせてくれるのは、本当に救われます。だから、私もいま悩んでいる子どもに、何かをつなげたいって思う。
この喧嘩がキッカケで、みどり先生は不登校の考え方を変えたと言っていました。たぶんその辺りから、私は直接みどり先生と会うことが増えていったんじゃないのかな?
先生の前に、友だち
ここからは、私主観の話に戻ります。
みどり先生は「はるちゃん、私と友だちになって」と言ってくれた、初めての先生でした。
名前に「先生」ってついてるけど、関係性は友だち。
いまでも覚えていることは、
会うといつも抱きしめてくれたこと。
ギューっとしたときの、あったかい感触。
校長室に、私の遊び道具を置いていてくれたこと。
引き出しに名前を書いて、「ここははるちゃんの場所ね」ってつくってくれたこと。校長室に遊びにいくと、そこからお絵描き道具をだして、部屋の真ん中にある大きなテーブルで絵を書いていたこと。
急にトランペットを借してくれたこと。
小学校には4年生から金管バンド部がありました。私がピアノを習っていて音楽が好きだとか、きっと裏で親と作戦立ててたんだと思います(笑)
トランペットを渡してくれる時に、
「ここはね、クラスじゃなくて音楽室で色んな楽器で音楽を楽しめる場所なんだよ。5.6年のお姉さんお兄さんが多くて、同級生も少ないから、はるちゃんにどうかなって思って」
的なことを言ってくれました。
言ってくれた当時、「ちょっと学校いいかも」と思っていた時だったんです。でも、取っ掛かりがなかった。
それを察してくれたような、素晴らしい提案で(笑)
私は放課後に、クラブ活動だけ参加してみるようになりました。
実際、本当に年上が多いですし、パート別に分かれて練習したりするので、同じクラスの子を気にする必要がなかった。私のことを、普通に学校通ってるもんだと思って接してくれるから、すごく居心地がよかった。
あと、学校のことを「うるさいのがきらい」と言ってたものの、楽器の音は全然気にならなかった(笑)これはチャレンジしてみないとわからないものだな~って思いました。
学校へ通いだしても、友だち
一般的には、少しずつ通うようになると、その様子をみて「もう大丈夫だな、担任に任せよう」と、距離を置くような動きがあるのかもしれません。
しかし、「学校に通いたい」気持ちと、それが行動に移せるかは別問題。「今日は大丈夫かな、もう一人で登校できるかな」の答えは、誰に聞いてもわからない。自分に問いかけて、自分で「できた」を積み上げるしかない。
そんな時期に、私がポキっと折れることなく「学校って、やっぱりたのしいところなんだ」という気持ちを膨らませ続けられたのは、学校へ通いだしても態度が変わらず、いつどんなときでも、会えば友だちとして接してくれた、みどり先生がいたからです。
例えば、私は算数が特段きらいでした。
算数は元々苦手なのに、低学年で学ぶ基礎をすっ飛ばしているので、何がどうなっているのか本当にわからない。だから算数は教室にいたくなかった。
それも「いいよ」と言ってくれたみどり先生&当時の担任のにご先生!
算数がはじまると、一人教室をぷら~と出て、校長室へ行ったり図書館に行って遊んでました。有難い話です。
かなり自由にさせてもらうと、逆に気が済むのも早くて。
どっかで「逃げてるばっかりだと、ますますみんなと差が開くよなぁ」っと思って、自分から算数の授業を受けるようになりました。
偶然を、必然に
この経験を、「そんなの偶然だ」と一言で片づけることもできます。
でも、この一連の出来事は、本当に偶然なのでしょうか?
みどり先生と出会えたことは、私にとって偶然かもしれません。けれど大人になって、みどり先生や母の大人サイドの話を聞くたびに思うことは、「誰も、私のことをあきらめずに接してくれた」という、努力の積み重ねのような愛情をいつも感じます。
大きな愛でどーんと受け入れるとか、そういうものとはまた違うと思っていて。
なぜなら、私の気持ちを尊重することは、イコール社会の常識を破るようなものだったと思うから。いくら「はるちゃんのしたいようにしていいよ」といいつつ、毎朝登下校する子ども達がいたり、進学校に入って成功を収める人をメディアでみたり。誰からも反対されていなくとも「あなたのやってることは、胸をはって大丈夫といえるのか?」という声なき問いが、社会から浴びせられるような日々を、私は大人になってから想像します。
そんなとき生活のなかで、きっと何度も「はるちゃん学校へ行った方がいいよ」と言いたくなったと思うんです。親も、みどり先生も。
でも、その一言を言わず、待っていてくれた。私を投げ出さなかった。
みどり先生は、私が6年生に上がるときに違う学校へ移ってしまったので、直接の関わりは2年間だけでしたが、校長室の横に、私のような子が自由に過ごせるカウンセリングルームをつくってくれたりと、6年になってもみどり先生の存在を感じ続けることができて、寂しくはありませんでした。
学校とフリースクールに共通するところは、子どもの友だちと、大人の友だちに会える場所だったなぁ。
だから私は、不登校だったけれども、学校が好きです。
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