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陸上部に入って走るのが嫌いになりました

中学・高校と陸上部に所属していましたが、走るのはもうあまり好きではありません。

競技を離れてから何年も経ちますが、今でもふとした瞬間に、部活動の嫌な思い出がよみがえります。辛い練習、走っても走っても出ない記録、怪我ばかりの体。どうしてもっと楽しめなかったのか、どうしてあんなに苦しんでいたのか、引退後もその理由が分かりませんでした。

しかし最近、石塚選手のnoteを読んで、ずっと心に抱えていたものの理由が分かった気がしました。

石塚選手は400m・400mHを専門にしている陸上選手です。高校時代は全国インターハイ3種目で優勝、その年の女子MVPに選出され、今も実業団で競技を続けられています。私は彼女と年が近いので同じ時期に競技をしており、前から名前を存じていました。

石塚選手はこのnoteで、インターハイの在り方について疑問を呈しています。上がり続けるレベル、選手の心身への負担、引退後のバーンアウト。教育活動であるはずの部活動が、このままでいいのかといった内容です。

わたしは「その活動レベルが子どもの自発的な動機を超越したものになっていることが問題」という一文にすごく共感しました。

「足が速くなりたい」「走るのがすき」といった動機で陸上部に入部した選手が、否応なしに「自己ベスト」や「インターハイ出場・予選突破」を目指せさせられることが問題ということです。「全国大会優勝」などの高い目標を持つ選手も、その目標を達成するまでに求められる努力の量が、彼らの動機を超えていることも同様の問題です。全国大会に出られる選手は全体の数%、レベルの高い地域だと地区予選突破も簡単ではありません。このようなハイレベルな戦いに臨まされ、自尊心が削られ、心身ともに疲弊してしまう選手が多いことへの問題を指摘しています。

私はまさにその疲弊してしまった一人だと、このnoteを読んで気が付きました。全国大会に出場した訳でもなんでもない、普通の陸上部員だった私ですが、その経験をここからは話させていただきます。

私は中学校で陸上部に入部しました。特に希望していたという訳ではなく、運動部がバスケ部・バレー部・陸上部の3つだけで、運動部には入りたいけど球技が苦手だったので、陸上部に入りました。専門は短距離にし、足はそこそこ速かったので、リレーメンバーに選ばれたり、県大会に出場できたりと、それなりに楽しく部活動に励んでいました。しかし真面目に練習する部員は少なく、部のレベルも高くはなかったため「高校では強いチームで走りたい」と思うようになりました。

中学卒業後は文武両道を掲げる公立高校に入学しました。どの部活動も盛んで、陸上部も公立普通科では珍しく、毎年近畿大会に出場する選手が出るくらい本格的なチームでした。部員のやる気、練習内容、全体のレベル、すべてが中学のチームとは比べ物になりませんでした。

高いレベルでの競技はやりがいがありましたが、今思えば私の動機とチームの目指すレベル・練習内容に大きな乖離がありました。

練習は常に「ハードな練習が結果に繋がる」というモットーで行われていました。辛くても、足が痛くても途中では抜けられない雰囲気、朝練に来る・練習に追加で走る・テスト期間でも練習する部員が偉いという風潮、怪我でも休むと申し訳なさを感じてしまう無言の圧力。私の専門種目の400mは特にそうでした。短距離で一番長い距離であり、練習量がタイムに出ると言われ、練習は毎日ハードでした。

それでも1年の間は先輩に必死で食らいつき、ベストタイムは更新され、リレーメンバーにも選ばれ、充実した陸上生活を送っていました。しかし2年になってから状況が変わりました。

先輩の引退後、私はキャプテンに選ばれました。意欲のある後輩もでき、「遅いキャプテンなんて説得力がない」と、より練習に精を出すようになりました。それと同時に「休めない」という考えも強くなりました。足が痛くても整骨院に通いながら練習する日々。がむしゃらに量をこなすだけの練習ではもう結果に繋がらず、試合に出てもいいタイムは出なくなりました。にも関わらず、目標は-3.0秒という大きすぎる目標を掲げ、少しベストタイムを更新したとしても「全然だめだ」と少しも喜べなくなりました。

ハードな練習をこなしても結果が出ない現実に、身体的にも精神的にもキツくなり、キャプテンの仕事やチーム仲の悪さも重なって、部活・練習が嫌になっていきました。その時から試合でレーンに出ても、「走りたくない、走りたくない、走りたくない、、」という言葉で頭がいっぱいになりました。

特に2年の秋の大会は散々でした。後輩にも抜かれ、リレーメンバーでは一番遅い走者になっていました。あと残された大会は、3年の春のインターハイ予選だけでした。「引退までにベストタイムを出したい」「リレーで県予選を突破したい」という気持ちが強くなり、冬季練習はより一層追い込むぞと心に誓いました。

冬季合宿を終えた1月のある日、疲れが出て強い風邪を引きました。今思えば発熱していたと思います。しかし「怪我でもないのに、走れるのに、休めるわけない」と、フラフラになりながら練習に参加しました。その日はサーキット練習で、ハードルなどを使っての練習でした。フラフラでハードルをジャンプしたので、着地のときに足が滑り、派手に転んでしまいました。足の甲が激しく痛み、足を引きずりながら病院に行くと「靭帯損傷」と診断されました。

肉離れやシンスプリント、疲労骨折などが陸上選手で多い中、このような怪我は私がドジでしただけなので、周りにもずいぶん馬鹿にされました。言い訳をしたかったですが、恥ずかしくて情けなくて何も言えませんでした。歩くこともまともにできないので、走れるはずもなく、補強練習ばかりの日々が2か月ほど続きました。

春になりシーズンが始まった頃に、やっと走れるようになりました。しかしまだ足の痛みは残り、2か月も走っていなかったので、試合に出てもタイムが出るはずがありませんでした。どうしても足を治したいと、痛み止めの注射を打ちに行ったり、1回1万円を超えるカイロプラクティックに通いました。しかし足は一向によくならず、1年の頃から走っていたリレーのメンバーから外されました。そのままインターハイ地区予選を迎え、1年の頃のベストタイムも出せない走りで、私は陸上競技を引退しました。

陸上競技は記録が全てです。0.01秒・0.01m記録を伸ばすこと、また予選を突破するために努力することから学べることはたくさんあります。辛い練習で鍛えられた精神力は社会人になってからも生きていると思います。共に辛い練習を乗り越えたチームメイトは、今でも付き合いのある一生の友人です。

ただ、もっと走ることそのものに楽しみを感じながら陸上競技ができていれば、私はあの頃の思い出をもっと肯定的に受け入れることができたのではないかと思います。もっと記録も出ていたのではないかとも思います。

「ハードな練習が結果に繋がる」ではなく、足が痛い時にきちんと休んでいれば、怪我が長引くことはなく、質のいい練習ができていたかもしれない。まず無理せず自分に適した練習量をこなしていれば、怪我も少なかったかもしれない。転んで怪我をしたあの日も休んでいれば、最後のリレーを走れたかもしれない。

走ることに楽しみを感じられていたら、毎日の練習が苦にならなかっただろうし、試合でベストタイムがでなくても「最後いつもより粘れたな」とか「フォームが前よりよくなった」などに試合に出る意義を感じれたかもしれません。

私の経験談はほんとに全陸上選手の一部で、全員がこう感じている訳ではもちろんありません。私のチームにも陸上が好きで卒業後も競技を続けた子はいるし、自分のペースで練習していた子もいました。ただ、石塚選手のnoteが反響を呼んでいることからも分かるように、今の部活動の在り方に、疑問を感じる人が多いのも事実だということです。

私は強い選手でもなかったし、陸上競技を辞めて何年も経っているので、競技を続けてる人はもう周りにはいません。私のできることは、このように経験や考えを言葉にしてみるくらいです。誰にも届いていないかもしれません。ただそれでも、私みたいな経験をする選手が少しでも減ればと願います。

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