「短篇小説研究」始動によせて

「短篇小説研究」という活動をはじめたいと思います。

活動内容は主に以下の通りです。


1.毎月一度短篇小説を題材にしたオンラインでの読書会。

2.読書会で扱った短篇についての論評やコラム、翻案による小説の制作。その合評。

3.制作物をまとめたZINEや同人誌等の発行。


同人誌を制作するサークルというよりは、小説を読む人同士で鑑賞と制作のモチベーションを維持し合う互助的な活動として、メンバーも固定せずに進めていきたいと考えています。読書会のみの単発の参加などでもかまいませんので、興味があればお声がけ下さい。


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「なぜ、短篇小説なのか?」

短篇小説を取り扱う同人を募るというのだから、そう尋ねられてしかるべきでしょう。

ところが、わたしは今この問いの手前で踏みとどまり、どうしたものかと考えあぐねています。どう答えるべきなのか。そもそも、答えるべきなのか。


問いに答えるには、文学のなかでも短篇小説に固有の特質や価値を取り上げていけばよいでしょう。たとえば、長篇小説と比べてみて、「短篇は技巧が光る」と言ってみる。たしかに、短篇小説を読んでいるときには、書き手の技術に関心することが多い。その短さゆえに、状況を簡潔に伝える文章力や、シンプルな物語に深みをもたらす構成や脚色の力が大きく作用しやすいようです。そして、「小説の技巧を学ぶ場として、短篇小説の実作や批評に取り組みましょう」と繋げればよいでしょうか。

しかし、そのような規定もいかがなものか。小説は本来、形式にとらわれず、何をどのように書いてもよいもののはず。それをあたかも、規範に従って順序よく進めれば上達する「お稽古ごと」のように扱うことは、実作の可能性を狭めるのみならず、批評の場においても作品に対する軽視を招きかねません。

では視点を変えて、日本の文学史を顧みることで、短篇小説が占めてきた特殊な位置について指摘してみる。短歌や俳句の伝統と短篇小説の興隆の関係なんてWikipediaにも書いてあります。また、日本に近代小説が入ってきてから、文学の主戦場は長らく新聞や雑誌だったようですし、そうした媒体の都合もあって、掲載しやすい短篇小説が重宝されてきた、という事実もある。そこで、「独自の進化を遂げてきた日本の短篇小説の流れを引き継いで……」といったことが言えれば格好はつきます。

ただ、この考えもまたずいぶん窮屈そうです。この国の特殊な事情によって産まれた独自の文化である「短篇」は、ここでたしかに一定の価値を得ますが、同時に大きな枠組みとの接続を断ち切られ、文学としての普遍的価値を失います。わが国の短篇の名手たちは世界文学の土俵には立たず、特殊なルールの罷り通るより小さな戦いに参加している、とでもいうのでしょうか。ずいぶん悲観的な立場に追いやられてしまいました。


そもそも、短篇に固有の特質を見出す、ということ自体に無理があるのかもしれません。当たり前のことながら、だいたい短篇と長篇の間には文字数などに依る具体的な境界線もなければ、短篇として想定されたものがかならず短篇になるというわけでもないから本質的な違いもない。短篇の特質とは何かと尋ねられたら、「短さ」とだけ答えておくのが結局のところ誠実なのかもしれません。

けれど、そうすると今度は短篇小説の価値がぐっと下がってしまいます。実際、読んでいて大きな感動が得られるのは長篇が圧倒的に多いですし、書いて褒められるのも長篇です。手軽なだけの短篇は、長篇の読み書きに備える練習にすぎないのでしょうか。


そんなことはない、と疑念を切り捨てるためには、ひとつ断言しなければなりません。

短篇小説とは独立した一つの表現形式である、ということです。

磯崎憲一郎は、小説とは「具体性の積み上げ」だといっています。それなら、「長さ」というこの上ない具体性は無視できない。長篇と短篇は、本質的には同じでも具体的には違うのです。また先ほど例として挙げた短篇ならではの特質も、実感としては真実です。やはり短篇を読んでいるとその作家の技巧的な面がよく見えますし、書く側に回れば技量を試されているような感覚を得る。短篇小説をメインに同人活動をするうえでは、それが日本文学の伝統の延長線上にあるということもまた忘れてはならないでしょう。

ところで、短篇小説もまたあくまで小説です。長さがどうあれ小説は小説だからこそ、われわれは堀辰雄のなかにプルーストをみることができるし、十数枚のつもりで書き出した小説がいつの間にか百枚を超えて膨らんでいくというような経験もするのでしょう。


「なぜ、短篇なのか?」

この問いの手前に踏みとどまることから、わたしたちの活動を始めたいと思います。

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