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内原で 『一駅』を走る " 旅先で『日常』を走る ~episode 7〜 茨城編 "

前回のあらすじ

神奈川で『外部』を走る

" 縄張りの外から内側を見ることによって、今までとは違った視点を手に入れることができるのである。"


内原で一駅を走る

緊急事態宣言下で、ほぼ全人類が家にひきこもっている。この日常だか非日常だかよく分からない日々が続く中、私も例に漏れず部屋に引きこもっていたところ、ふと8年前のある出来事を思い出した。3ヶ月に渡る長期出張のことである。

時は2012年。当時の私は四十路を目前に惑いまくり、新卒から15年以上勤めた会社を辞め、転職した。そして転職先では試用期間中にも関わらず、水戸内原のイオンモールに出来る新店のサポートを、期間限定ですることになった。
長期出張の住まいはレオパレス。JR常磐線赤塚駅下車、徒歩15分。しかも最初の1ヶ月は4人でワンルーム+ロフトを共有するかたちだった。この部屋を拠点として、出張していた3ヶ月間、私はただひたすら赤塚⇔内原の一駅を通い続けた。
思い返すと、日常だか非日常だかよくわからない日々であった。

ところで内原も赤塚も茨城県の県庁所在地である水戸市に位置し、そこそこ栄えている地だと思われるが、電車の本数はこんなもんである。

店舗がオープンしてからほぼ毎日、朝9時から日付が変わるまで働き通し。電車を一本逃すと大変な目に遭う… 特に帰りは終電を逃すと物理的な死が待っている。まさに過酷な環境である。
このような環境下で、日々の私の行動は否応なく時刻表に縛られていた。部屋と職場の間のたった一駅を移動するために、電車の発車時刻というタイムリミットを意識して行動しなければならない。閉店後の店内、ヘトヘトになった肉体と精神に、目の前のタイムリミットがプレッシャーとなってのしかかってくる。

およそ60秒ごとに店の壁に掛かっている時計に鋭い視線を投げかけ、着実に長針が動いていることに焦りを感じながらも、「神よ、願い事がひとつだけ叶うならば、時間をあと30分戻してください。」と、ひたすらに強く念じていた。当時39歳のおっさんであった私は、まるでシンデレラのような精神状態だった。

そんな茨城にも、わざわざ走りに行ったことがある。なぜなら『47都道府県すべてで走る』という酔狂な試みを去年の正月から突発的に始めたからだ。

2019年12月。休日にふと思い立って茨城へ。東京駅前のバスターミナルでペアチケットを購入する。東京⇔水戸の高速バス、上り下り問わず使える、2枚綴りのチケット。ペアと書いてはあるが、もちろん一人で2枚使ってもOKなシステムだ。
さて、東京駅発水戸駅行きのバスに乗り込む。動き出したバスの中でふと記憶の扉が開く。そもそもなんで私がペアチケットの存在を知ったのか?

内原の店舗がオープンしてから1ヶ月ほど経ったところで、ルームメートたちが皆東京に引き揚げていった。私ひとりの占有スペースになったレオパレスに、当時付き合っていた女性が週末を利用して赤塚にふらりとやってきた。安くて便利な高速バスのペアチケットを見つけて、赤塚までの往復に使うのだ、といった事を彼女が話していて、初めてそのチケットの存在を知ったのだった。
予断だが、彼女は珍しく(というより初めて)手料理を振る舞ってくれ、翌日部屋を掃除して帰っていった。そういった彼女の一連の仕草や態度から、もう逢わないという覚悟がなんとなく伝わってきた。

そんな思い出を記憶の隅から手繰り寄せているあいだに、高速バスは内原インターの停留所に到着した。ご存知の方も多いと思うが、高速道路上にあるバス停留所というものは貧相にしつらえてあり、そこから一般道に降りていく階段もまるで非常階段かと見まごうようなシンプルな作りである。旅の高揚感が削られていく嫌な感じ。しかしここは気を取り直して行こう。楽しい小旅行の始まりだ。

鉄骨階段をカランカランと音を鳴らしながら一般道に降りていく。降り立った先は閑静な住宅街、というか第一次産業が営まれている真っ只中であった。
まずはランニングウェアに着替えなければ。道端の植え込みの陰に身を潜めつつ着替える。客観的に見ると変質者的な挙動かもしれないが、見渡す限り人影はない。気にしないことにしよう。さて、着替えも無事に済んだ。さっそく走り始めよう。

内原インターから、最初に目指すはかつての職場『イオンモール水戸内原』。google map曰く約3kmの道のり。農道の先に一際その存在感を放っている。これは楽勝でしょう。ひたすら真っ直ぐに伸びているファーマーズロードを軽快に走り抜ける。はずだった。しかし私としたことが、痛恨のミステイクを犯してしまった…  真冬の定番アウターであるPコートを着てきてしまったのである。

いつもなら最寄りのコインロッカーに荷物を預けて、あらかじめ決めていたルートをぐるりと一周し戻ってくるパターンを取る。なのでPコートを着てきても一切問題はないのだ。しかし今日はコインロッカーの一つも見当たらない辺◯の地をスタート地点に選んでしまった。しかもルートは一直線。ここにはもう戻ってこない。OHマイゴッド。いっそPコートを、この場に投げ捨ててしまおうか? この支配からの卒業。しかし帰路の防寒上の観点から、Pコートを持ったまま進むことにした。冷静な判断ができる大人な私(当時46歳)。
もちろん羽織ることはせずに、腰に巻いて走る。走っているとその重みで徐々にずり下がってくる。60秒に1回ほどの頻度でPコートの位置を直し続けるラン。私のQOLは著しく低下した。勢いあまって茨城のことを嫌いになりかけたほどだ。

しかしそんな神に与えられた試練を乗り越えて、私はあと少しでイオンモールにたどり着こうとしていた。この線路を越えたら願いは放たれるのだ。ただしそれは線路を越える手段があればこそ成り立つ話であった。
なんとこの線路を越えるには今来た道を半分ほど引き返し、右折した挙句に内原駅前の踏切を渡らねばならないようだ。OHマイゴッド。Pコートが邪魔だ。

なんとか気持ちを立て直してルート変更し、イオンモールにたどり着くことができた。愛用のランニングアプリStravaは4.7kmと表示していた。地方の道路状況の恐ろしさを思い知った出来事であった。そしてPコートは相変わらず邪魔であった。

休憩がてらイオンモールの中を散策する。レストラン街は店舗の入れ替わりが結構進んでいる。その中で私が立ち上げたお店は変わらずに存在していた。ひと安心。働いている方の中に見覚えがある顔が見当たらなかったので、特に声も掛けずに退散する。また記憶の扉が開く。

オープンからしばらくはお店は大盛況で、3時間半待ちとか普通に生じるレベルだった。その忙しさを入社3ヶ月目で捌かなければいけない立場に置かれて、私はかなり苛立っていた。しかも周囲のスタッフは新人ばかりで、自分の担当業務を必死でこなしながらスタッフの教育も並行して行わなければならない状況だった。心の余裕は1mmもなくなり、否応なくスタッフに対する当たりもキツくなる。
しかし、そんな私でも、内原のスタッフは気を悪くすることなく受け入れてくれた。「ここでずっと一緒に働きましょうよ」と言ってくれたスタッフも何人かおり、私が去る時にはいくつもプレゼントをもらった。 3ヶ月という短い間だったが貴重な思い出だ。

休憩はこれくらいにして、赤塚までの道のりを再び走るとしよう。所詮一駅だからたいした距離ではないだろう。国道沿いをまっすぐ走ればすぐに赤塚に到着だ。車の交通量は多いが人間の通行量が少ない国道沿いを走り抜ける。しかしPコートは相変わらず邪魔だ。かつて電車の車窓から眺めていた景色の中をただまっすぐに走る。走りながら、思ったより長い距離だなと感じる。Pコートが邪魔だ。

しばらく走り続ける。思ったより長い距離だな。Pコートが邪魔。

さらにしばらく走り続ける。いい加減単調な道のりに飽きてきた頃、左手に大塚池を発見した。よし、ここを一周して終わりにしよう。

大塚池は一周1km強の、走るには手頃なサイズであった。散歩をしている老若男女が目立つ。彼らの日常にそっと溶け込む。これも旅ランの醍醐味の一つだ。そんなこんなで一周回り無事に走り終えた。

ホッと一息ついた私の視線の先に、『極楽湯』という看板が見える。このスーパー銭湯で汗を流して、今日のランを終了としよう。
最後までPコートは邪魔だった。

走った後に測ったところ、内原⇔赤塚間はなんと5756mもあった。私の地元の駅は隣接する駅との距離が500m強である。 同じ一駅でも、その差はなんと10倍!そこに暮らす人々に与える距離感の違いは大きいだろう。

地方で暮らす方が自動車を重用する理由は分かっていたつもりではあったが、実際にこの一駅を走って、あらためてその重要性を体感した。地方で暮らすのに自動車を持たないことによる、不自由さの一端を垣間見ることができた。ここに暮らす人たちは、自動車を所有し移動することによって、時刻表に縛られない自由さを初めて獲得できるのだ。

走ることで一駅の長さを体感し、距離感を更新する。これも走るという行為がもたらす豊かさのひとつである。そして旅ランにPコートを着ていくことはご法度である。今後も事あるごとに啓蒙を続けていきたい。


次回予告

いわきで『薄暮』を走る

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