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2022 3.11 メモ

2011年3月11日、私は新浦安の職場で被災しました。館内にいるすべてのお客様と従業員を避難させることが私の職務上の義務でした。私は避難誘導をしながら「もしかしたらここで死ぬかもな」と思いましたが、同時に「仕方ないか」とも思いました。思い返すと恐ろしいほどに自らの死を達観していました。

私の店は壊れて、その後しばらくは営業できませんでした。しかし身の回りで亡くなった方はおらず、いわば中途半端な被災者でした。そしてその中途半端さゆえに、かえって酷い目にあったり嫌な思いをすることも多々ありました。正直あの頃のことを思い出すことには、今でも苦痛を感じます。

被災地での復興に際して、様々な局面で軋轢が生じています。起こってしまったことを総括して先に進みたい人と、それを直視することすらままならない人。それぞれの痛みや想いがあります。どちらが正しいということはありません。しかしどちらかに方向を決めなければなりません。それでも、互いの傷に向き合い、いたわり合いながら進むことが大事だと思います。

また「海と生きる」と決めたならば、覚悟を決めて暮らすべきです。恩恵を受ける反面、負わなければならないリスクも生じます。海に殺されるなら仕方がないと腹をくくることが、よりよい暮らしには必要です。そう決めてしまえば、バカ高い防潮堤を建立したり、昔からある山を切り崩して持ってきた土で海沿いの土地を嵩上げして暮らすようなことはしなくても済むのです。海に殺されたくなかったら、高台に移住すればよいのですから。「どう暮らすか」は各自が強い意志をもって決めることが大事だと思います。

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