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探究とは何か?〜探究の本質観取〜

こんにちは!
探究学舎の向敦史(むかいあつし)です。

本記事は、2020年12月14日(月)に実施されたイベント、探究とは何か?〜探究の本質に迫る〜のまとめ記事です。当日、何が話されたのか、どこまで深まり、どういったことが次への課題として残っているのか、まとめていきたいと思います!

当日何が話されたのか?

さて、まず、当日どのようなことが話されたのか、から見てみます。

今回のイベントで行われたのは、「本質観取」という哲学の方法を用いた、「探究」の本質に迫るという営みです。

まず簡単に「本質観取」とは何かを解説します。
(知っているという方は読み飛ばしてください。)

本質観取とは?

本質観取とは、平たくいうと、

「物事の本質を射抜く」

ということです。

物事をそれたらしめているもの、それを欠くとそのものでなくなってしまうもの。そんな核心を為すものを射抜く。

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少し具体例をあげてみます。

例えば「恋」。

様々な人が経験してきているであろう、恋。その本質と言われると、どうでしょう、みなさんであればどう答えますか?

私は、恋と聞くと、切なさ、淡さ、ドキドキ、金木犀の香り(中学生の時に振られた季節に香っていた)などが浮びます。

この感じを聞いて、みなさんどうでしょうか?
うんうん、という感じもあれば、「金木犀???」という感じもあるのではないでしょうか。

それぞれの経験を照らし合わせた時に、共感できるものもあれば、疑問符が浮かぶものもある。あなたにとっての恋もあれば、私にとっての恋もある。

普段私たちが経験している世界では、金子みすゞよろしく

「みんな違ってみんないい」

ということがささやかれます。

恋とは何か?には、無限の回答が成り立ちます。

しかし、ひとたび、「良い」〜とは何か?という修辞がつくと、様相が異なってきます。

全てあっていいのであれば、選ぶべきものはない。全てが肯定されうる。

一方で、何かしらを選び、発展させていくことを志向する場合、「良さ」を定義しないといけない。

では、一体どうやって「良さ」を定義するのか?

現在の世界では、見えない力の差(地位、経済力、軍事力…など)を使って、「良さ」が定義されていることがほとんどです。

しかし、これが常態となると、持つものと持たざるものの格差は開く一方。世界は分断されていきます。

そこで、必要になるのが、「良さ」をみんなで射抜き、鍛え上げていくこと。

そのために、その議論に参加した全員が「共通了解可能な=確信可能な」定義(条件)を探り、磨き上げていく営み、それが、「本質観取」です。

今回ご一緒させていただいた、苫野一徳先生(以下、苫野先生)によると、恋の本質は以下になります。

恋=ロマンの投影とそれへの陶酔

ほおお。ちょっと難しい。しかし、思い浮かべてみると、徐々に味わいが出てきます。するめです。

例えば、「一瞬にして冷めた」という現象。

それまで、「素敵だわ」と恋していた人が、ある事柄を見た瞬間に「冷める」ということがあります。ないしは、恋人の別れ際も似たような質感を持っているのでしょうか。

こうした瞬間に語られるのは、「思っていたのと違う」という感覚ではないでしょうか。

「もっとこういう人だと思っていた」
「昔はマメだったのに、変わってしまった」
「将来像を描いた時に一緒にいることができなさそう」

こうしたことが語られる時に、起こっていること、それがまさに

「ロマンの投影」

です。自分の中の理想的なパートナー像を思い浮かべ、それを相手に投影している状態。

恋している最中は、そのロマンの投影に、

「陶酔」

しているので、気になりませんが、一度その陶酔が解けてしまうと、恋は終わりを告げます。

ゆえに、恋は、「ロマンの投影とそれへの陶酔」が本質であると言えるのではないでしょうか?大恋愛と呼ばれるものほど、ドラマチックで、ロマンの投影とそれへの陶酔が強いと言われると、イメージがつくでしょうか。

さて、ここまで「恋」を事例に、「本質観取」とは何か?を見てきました。

ここで「恋」の本質として取り上げた「ロマンの投影とそれへの陶酔」は、苫野先生が多くの方と本質観取をする中で暫定的に同定されているものです。
ここにさらに多くの人が参加することにより、また変わることももちろんあります。そうして、多くの人が共通了解可能な原理に落とし込んでいく、その営みこそが本質観取です。

さらに詳しく知りたいという方は、以下のリンクをご覧ください。
(少し難しいですが、詳細が分かると思います。)

いざ!本質観取!「探究とは何か?」

さて。読み飛ばした方もいらっしゃると思いますが、ようやく本題。

我々「探究学舎」の名前でもある「探究」の本質観取です。

まず、本質観取の手順を確認します。

<本質観取の手順>
1:絶対に正しい本質はない。それぞれの確信・信憑をテーブルに置いていくことを確認。
2:なぜその本質を観取したいのか、関心や問題意識を出し合う。
3:事例を出し合う。
4:事例を分類し、概念化する。
5:すべての事例の共通本質を考える。
6:最初の問題意識や疑問点に答える。
(哲学者:西研先生からの参照)

本質観取は上記の手順で進みます。

当日もまず、グランドルールとなる、「絶対に正しい本質はない。それぞれの確信・信憑をテーブルに置いていくこと」が確認されました。

次に、関心や問題意識。

昨今、「探究」という言葉が教育という文脈の中で何か良いものとして語られるようになって久しいです。その中で、探究学舎が担う仕事は、コンテンツを作り、届けることに止まらず、「良い」探究の本質に迫り、次の時代に「探究という文化」を根付かせていくことです。

つまり、今回の営みを通したゴールは、探究の本質の端緒を掴むこと。そして、それを日々の実践の土台に据えながら、探究の本質を射抜き、文化へと磨き上げていく一つのきっかけにすること。

ここが共有されて、いよいよ本質観取が始まりました。

本記事を読み進めていく補助線として、議論の進み方を共有しておこうと思います。

まず行われるのは、事例の収集。そして次に起こるのが、事例の一般化。その後は、反例が登場し、その反例をも含むさらなる一般化が行われる。以下、繰り返しです。つまり、

事例→一般化1→反例→一般化2→反例→一般化3→反例→・・・→本質定義

というような流れで進んでいきます。

では早速見てみましょう!

事例の収集〜探究している時って?〜

最初に行われたのは、事例の収集。

様々な事例が登場しました。

多様な意見.001

・スノーボード
どうすればキッカーをうまく飛べるのか、角度なのか、重心の位置なのか?
・授業づくり
これはどうなっているんだろうか?なぜこうなるんだろうか?
・自動販売機の横のゴミ箱の写真の収集
初めは無秩序に見えたゴミ箱の種類が類型化されてきて、分類されていく。
・泥遊び
泥団子をいかに光らせるか、いかにトンネルを掘り進めるか、水の流れをどうするか、没頭していた。
・知らない言葉、概念を調べている時
気がついたら日が暮れている。朝を迎えている。
・絵を描く、漫画を読む
家に引きこもり、そればっかりしていた。
・ミニ四駆
コースを自分たちで改造して、ジャンプ台を作るために試行錯誤した。
・オンラインゲーム
熱中して、何ヶ月もずっとやり込んだ。

この中で議論を呼んだものが、「オンラインゲーム」

ゲームやYoutubeなどを子どもが何時間も手放さず、やり続けているのを見ると、胸がざわざわする感じがある人もいるのではないでしょうか?

「オンラインゲーム」は探究なのか?について、議論が盛り上がりつつ、ここから、上の事例の中から一般化された定義を取り出す上で、鍵になりそうな観点が出現しました。それが、「探究」と「中毒」の違いです。

探究?中毒?その違いは?

参加者によると、ゲームをしている時の感覚は、2通り。
1:中毒的な質感と、2:探究的な質感です。

<1:探究的な質感>

オンラインゲームで探究的な質感があるのは、参加者の声を借りると、以下の時。

どうすれば、こいつ倒せんだろう?どうすればこのアイテム手に入るんだろう?っていう目的に対して、道がよくわからない。「ああでもないこうでもない」ってやってる瞬間。

ああでもない、こうでもないという「試行錯誤」がなされる瞬間。それが、探究的な質感があると。

<2:中毒的な質感>

一方で、中毒的な質感があるのは、以下の時。

これさえやっておけば絶対オッケーっていう見つけたパターンをひたすら繰り返している時。

試行錯誤性が失われ、作業として、パターンを繰り返しているとき、気持ちはいいが探究的な質感はなく、むしろ中毒的な質感があるとのこと。

となると、解き明かすべきは、探究的な質感と中毒的な質感を分かつものは何か?という問いです。

一般化1:探究=何か「未知」のものに触れること

ここで、1つの重要なキーワードが置かれました。

それが、「未知」です。

未知.001

ここで、一般化1です。

<一般化1>
探究=何か「未知」のものに触れること

どうでしょう?

しかし、ここで反例が上がりました。

<反例>
未知に触れてもずっと未知だと興味が失われる。探究し続けない。

探究学舎での授業を届ける中で得ている感覚からの反例でした。
授業の中で未知を提起しただけでは子どもの興味は続かず、わからないが続くと諦めたり興味を失ってしまう。探究には至らない。

なるほど。

では、さらなる一般化を目指して、議論を進めましょう。

一般化2:未知を既知へともたらす営み

一つ目の反例、

<反例>
未知に触れてもずっと未知だと興味が失われる。探究し続けない。

については、こうした意見がありました。

探究学舎の授業の中で、何かに驚き、感動する場面がある。しかし、その後、「探究の踊り場」に上がる場面がある。未知が一旦既知に変わり新しい気づきが生まれないタイミング。そしてしばらくすると、既知の中からまた新しい未知が生まれる。するとまた探究が始まる。この繰り返しが重要。

これには、他の参加者の中からこうした事例が上がりました。

自分は大阪の出身です。大阪の行政に関しては全く興味がありませんでしたが、大阪都構想が持ち上がり、大阪都になるとどうなるのか?と既知の中に未知が生まれた瞬間に行政に対して興味が湧き上がりました。

このように、「既知」だと思っていたものの中に「未知」が現れた時、人は、それを「既知」にしようと、「探究」を始めるのではないか。

こうした意見が出ました。

未知→既知.001

ここで、一般化2です。

<一般化2>
探究=未知を既知へともたらす営み

どうでしょうか?

ここで、次の反例が出ました。

<反例>
未知なものは世界に無数にある。でも、その全てを探究しようとは思わない。

確かに。

未知のものの中には、興味を持てないものがあります。例えば、僕にとって、玉ねぎの球根をどのくらいの温度で保存するのが一番良いのか?は確かに未知ですが、積極的に既知にしようとは思えない。

未知のもののうち、探究したくなるものとしたくならないものは明確に分かれる。この差分はなんなのだろうか?が次に解き明かすべき問いです。

一般化3:私の未知を既知へともたらす営み

ここで、ポイントとしてあげられたのは、「俺の」性があるかどうかというものでした。

以下のような意見が出ました。

「俺のイタリアン」って数年前に流行ったけど、あれに引き寄せられたり、あれを聞いた時にシェフの探究の様子が伝わってくるのは、「俺の」という言葉に、当事者性や自分ごと感が感じられるからだよね。
つまり、探究に欠かせないのは、「俺の」性だ!

子どもたちにとって、自分ごと化されないテーマは探究の選択肢に入らない。

探究学舎の授業で扱う「宇宙」に関しても、いきなり、「宇宙はどうやって始まったのか?」「ブラックホールの中ってどうなっている?」と問いかけても、興味を持てない。子どもにとって「自分ごと」になるフェーズが必要。そのためにクイズをしたり、古代の宇宙の考え方をみて面白がりながら親しみをもったり、太陽のサイズを実感できるアクティビティで驚いたり感動したり。こうしたことを通して「私の」問いになることが重要。

つまり、「私の」性があるかが、「未知」を「既知」へともたらす営みのうち、探究とそうじゃないものを分かつのだ。と。

私の性.001

ここで、一般化3です。

<一般化3>
探究=私の未知を既知へともたらす営み

どうでしょうか?

ここでさらに反例が。それが。

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パチンコ。

<反例>
玉が出るか出ないかわからない状態(未知)→出た!(既知)に変わるし、「私の」感もある。ということはパチンコは探究だが、なんとなく違和感がある。

どうでしょうか?パチンコは探究なのでしょうか?

一般化4:私の未知を既知へともたらす試行錯誤的営み

ここで、こうした意見が。

パチンコも、台を研究して、この台はピンがどうなっているから、ああでこうで。回転数がこれだけ回っているけどまだ出てないから、ああでこうで。と、試行錯誤しながらやっているのであれば、探究だ。

という意見がありました。

つまり、探究かどうかは、純粋な事象に対しては付与できない。

パチンコに探究的に向き合っている時もあれば、そうでない時もある。
ゲームに探究的に向き合っている時もあれば、そうでない時もある。
将棋に探究的に向き合っている時もあれば、そうでない時もある。

探究とは、その事象に対して、「試行錯誤」しながら向き合っている状態である。と。

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ここで、一般化4です。

<一般化4>
探究=私の未知を既知へともたらす試行錯誤的営み

どうでしょうか?

ここで、さらに反例が。

<反例>
未知が既知になりきっていなくても、探究している感じもする。例えば、人生とは何か?とか、人間とは何か?という問いは、既知にはなりきらない。こうした問いには、答えがないから既知にはならない。でも、解きあかそうとする、そのプロセスの中にいること自体が探究っぽい。

確かに。

ここで次の観点が出ました。

一般化5:私の未知性を既知性へともたらす試行錯誤的営み

確かに、既知と未知で二分されているものではなさそう。つまり、

未知と未知性.001

探究とは、こうした、0か1かのパキッとしたものではなく、以下のようなグラデーションの中にあるのではないか。

未知と未知性.002

そして、そのグラデーションには、「未知性」と「既知性」という名前がつけられるのではないかと。
(この辺りをまとめてくださった苫野先生の言語感覚はあっぱれでした…)

さらには。このグラデーションの移行はスムーズに進むのではなく、行ったり来たりしながら進む。こんなイメージ。

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ここで、一般化5です。

<一般化5>(本質定義)
探究=私の未知性を既知性へともたらす試行錯誤的営み

どうでしょうか?

ここまで来た時に、今回のイベントの参加者間では一定の納得感が生まれました。

改めて、最初に出てきた事例と見合わせてみましょう。

・スノーボード
どうすればキッカーをうまく飛べるのか、角度なのか、重心の位置なのか?
・授業づくり
これはどうなっているんだろうか?なぜこうなるんだろうか?
・自動販売機の横のゴミ箱の写真の収集
初めは無秩序に見えたゴミ箱の種類が類型化されてきて、分類されていく。
・泥遊び
泥団子をいかに光らせるか、いかにトンネルを掘り進めるか、水の流れをどうするか、没頭していた。
・知らない言葉、概念を調べている時
気がついたら日が暮れている。朝を迎えている。
・絵を描く、漫画を読む
家に引きこもり、そればっかりしていた。
・ミニ四駆
コースを自分たちで改造して、ジャンプ台を作るために試行錯誤した。
・オンラインゲーム
熱中して、何ヶ月もずっとやり込んだ。

どうでしょうか?言えていそうでしょうか?

ここで新しい観点が出ました。

<観点>
反例ではないのですが、事例をみていくと、探究の中には、より一層探究っぽいものとそうでもないものが混在している感じがある。

なるほど。確かに、探究っぽさが濃いものと薄いものがある。

ここで登場したのが「度合い」という概念でした。

一般化6:私の未知性を既知性へともたらす試行錯誤的営み/強さと深さという度合いを持つ

こうした意見がありました。

探究っぽさが濃いものをみていくと、自分とは切り離せない、自分と同一化している感じがある。例えば、さかなクン。彼は強烈すぎるけど(笑)、魚と自分が一体化している感じがある。自分と不可分な質感。それを纏っているものが、探究っぽさが濃い感じがある。

つまり、自分の人生との切り離せなさが強いほど、探究っぽさが増すということ。これに言葉を当てて、探究には「強さ」(動機の強さ)という度合いがあるとなりました。情熱や天命という言葉もここに関わるかもしれません。また、今回の定義の中では「私の」性が強いものとも言えるそうです。

次に、こうした意見がありました。

簡単に答えが出ないものにアプローチしているかも、重要な気がする。例えば、9マスの中にマルとバツを書いていくゲーム。最初は試行錯誤性があるけど、最終的には、全てパターン化されてしまう。こうしたパターン化されるものではなく、どこまでいっても試行錯誤が必要なものに向き合っているほど、探究している感じがある。

答えが簡単に出ず、パターン化されない。そんなものに向き合っている方が探究度合いが濃い。これに言葉を当てて、探究には「深さ」(解答難易度の高さ)という度合いがあるとなりました。確かに、探究者と言われる人たちは、まだ誰も解いたことのない難問や難題に向かう傾向はみて取れそうです。また、今回の定義では、試行錯誤性が強いものとも言えるかもしれません。

つまり。探究には2つの度合いがある。それが「強さ」と「深さ」です。

ここで、一般化6です。

<一般化6>
探究=私の未知性を既知性へともたらす試行錯誤的営み
強さと深さという度合いを持つ

ここで注意したいのは、今回の対話の中で、「強いから良い。深いから良い。」とは言われていないことです。ただ、探究の度合いが高いか、低いかについてのみ言及しています。

ここまでを整理すると、探究には、4つの種類とその中でのグラデーションがあります。

<4つの探究>
1:弱くて浅い探究
2:弱くて深い探究
3:強くて浅い探究
4:強くて深い探究

強くて深い探究.001

この四象限で切った時に、強くて深い探究に向かっていくのが、探究者になっていくプロセスなのではないかという話がありました。

ここまで、探究と何か?を明らかにしてきました。その結果として、

<一般化6>
探究=私の未知性を既知性へともたらす試行錯誤的営み
強さと深さという度合いを持つ

が導かれました。

ここで、最後に問題となったのは、いかにすれば、強くて深い探究に誘うことができるのか?という点。つまり、

探究はいかに可能か?

という点でした。

探究はいかに可能か?→強さと深さへの支援

学習者の探究を支援するということは、これまでの議論に基づくと、強さと深さが増す関わりをすることです。

<強さへの支援>

強さとはすなわち、私との不可分性でした。

つまり、問いとしては、いかにすれば、その人の「強さ」を引き出すことができるのか?というものです。

ここで、次のようなことが語られました。

前に、うちの子どもがある事件を起こして。トイレがちょうどできるようになったかならなかったかのタイミングだったんですが、その日はちょうどオムツをつけていなくて。でも、うちの子はトイレで用を足そうと、トイレに向かってたんですね。でも、間に合わなくてw リビングで盛大にやっちまったんですよ。でも、それをみてて、人は、生まれながらにして、学ぼう、できるようになろうと思って失敗する力があるんだということが腑に落ちてきた。やっぱり、その人の可能性や探究する力を信じることが大事だと思う。

また、次のような意見もありました。

その人の中にないものじゃなくて、あるものに着目する。
「私の」性→自分の人生との不可分性。ということは、その人がどんな人なのかと関わる。理想や期待として、その人の中にないものを当てはめて見るのではなく、その人の中にどうしようもなくあるもの。それをみてあげる。

強さを引き出していくためには、その人の中に「ある」ものをみていく。そしてそこから紡いでいけるようなコミュニケーションをする。これが強さへの支援ではないかと言えそうです。

<深さへのアプローチとしての反省性>

ここで、こんな意見も出ました。

「私の」性は、様々なもので強く発揮される。例えば、ゲーム。中毒的な質感の関わりになっていたとしても、その瞬間のその人においては、「私の」性が強く現れる。強い探究。
探究に関わる人は、その強さに深さが伴っているかをみてあげるのが重要。

合わせて次のような意見も。

ただ、当事者は行為の最中は、自覚的になれない。
支援者は行為者が「私の」性を発揮している時は、まずは、見守ってあげる。
諦めて見守ってるのではなくて、そのやっていたことは探究なのか?深さを伴っていたのか?(試行錯誤性があったのか?)の振り返りに付き合ってあげるのが大事。

振り返り=反省性の重要性が語られました。

まずもって大切なのが、中毒的であったとしても、子どもの「私の」性を信じて、見守る。そして、ひとしきり終わった後に、反省を支援する。

「あんたのは探究じゃないのよ」と喝破するのではなく、

「あなたの昨日の徹夜は、どうだった?」
「同じことの繰り返しに見えたけど、どう?」
「やってみて、どう思った?」

と、その人の反省を媒介する。これにより、その人自身が、

「こういうのが要するに探究で、自分にとっていい時間で、逆に、こういうのは、あまりよくないな」

と深さについて自覚する契機を持つことが重要になりそうです。

自覚により、その人が自らの力で自らを強くて深い探究のゾーンに引き上げていくことができるようになっていくように関わることができれば、自ら探究する力を育んでいくことができます。

つまり。探究を支援する際の重要なポイントは2点。

1:強さへのアプローチ
その人の「私の」性を見取り、その発揮を信頼して見守る

2:深さへのアプローチ
「どうだった?」という反省の媒介者として関わる

以上2点になります。

要約

ここまでの内容を今一度要約します。

探究とは?
私の既知性を未知性へともたらす試行錯誤的営み
強さと深さの度合いを持つ
探究の2つの度合い
強さ:「私の」性と相関を持つ。
深さ:解答難易度(試行錯誤性)と相関を持つ。
探究はいかに可能か?→強さと深さへの支援
1:その人の「私の」性を見取り、その発揮を信頼して見守る
2:「どうだった?」という反省の媒介者として関わる
→自ら強くて深い探究へと向かう力を獲得する支援となる。

ここまでが今回の本質観取を通して明らかにできたことです。

どうでしょうか?

最後に、今回を踏まえた、次回に持ち越されている課題感を整理してみようと思います。

今後の課題

ここから先は、筆者(向敦史)の所感をまとめています。「第二回をしましょう!」という話もあるので、コメント等で、読んだみなさんの感想もいただけると、次回に向けた課題として整理できます。

・「私の」性の質感をもう少し狭められないか?

いやな感じの「私の」性はないのか。例えば。

この業務をできそうなのは、私しか社内にいない。→当事者性がある。
その業務を遂行するためには、何か「未知性」のあるものを「既知性」へともたらす試行錯誤的営みをしないといけない。渋々。イヤイヤ。

みたいな質感の場合を除外することが難しいのではないか?
この場合は、能動性や主体性といった言葉や「ワクワク」みたいなキーワードを統合して再一般化することができそうかもしれない。または、本質契機として、整理できるかもしれない。

・発生的本質としての「連続性」は考えられないか?

「私の」性が人や環境からの刺激によって「付与される」場合もあれば、「湧き上がってくる」場合も考えられる。
この湧き上がってくる場合のものは、以前経験したなにかしらかとの連続性の中で、自分にとって引っかかりとなっている感じがある。そこに、経験の「連続性」という概念を当てはめることは難しいのか?

もう少し、粒の荒いものとして、以下も考えられます。

・本質契機として、質感を扱うことができそう
・連続性と反省性の関わりはどうなっているのだろうか
・既知の中に未知が立ち現れる瞬間の条件とは?
・そもそも本質定義に対する反例は他にないのか?

など、様々なポイントがありそうです。多くの人が、気になったポイントを上げてくださると幸いです。

さて、今回は、探究とは何か?〜探究の本質に迫る〜のまとめ記事をお届けしました。

筆者の思いとしては、探究が何か良いものとして語られる今だからこそ、その本質を射抜き、良さを磨き上げていく営みを通して、次の時代に繋がる探究という文化を作り上げていきたいという思いがあります。

何か良さそうなことを超えて、共通了解としての探究へとみんなで知恵を絞っていく。その先に、やりたいことで生きていく世界や、さらには、やりたいことをやる反面、こぼれ落ちるやれないことを誰かに頼る世界、だからこそ、助け合いが必要だし、相互にお互いの自由を守ることが重要になる世界が見えてくるのではないかと思っています。

次回に向けて、また準備を進めていきたいと思いますので、乞うご期待!

筆者:向敦史(むかいあつし)

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