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【三周年】進水記念日

 我が国では、陰陽思想の影響で奇数が好まれる為、三という数字は、なにかと節目を定める際に用いられがちである。若い頃、どんなことも三年は続けてみるように教えられた。継続は力なりと。皆様も似たような経験があるのではないか。

 当アカウントを “舟” に見立て、兄弟二人で作品を交互に航海する旅は、旗揚げに当たる進水から丸三年に到達した。皆様からいただくスキやコメントなどが、順風満帆の後押しになってきた。心より感謝申し上げる。
 そして、今日ばかりは、自賛をお許しいただきたい。

 あっぱれ三周年!
 ハレの日と言おうか、今の気持ちを例えるならば、梅雨時の夕晴れである。しばらく続いた曇り空が一転して、新しい夏が始まるような解放感に満ちている。
 一年で最も昼の長い頃の夕晴れは、のんびり暮れゆく空が美しい。

 欧州、特に北の方では、冬の日照時間がひどく短い為、夏至を盛大にお祝いするそうだ。二週間後の六月二十一日である。
 夏至には、妖精にまつわる様々な物語があり、その一つがシェイクスピアの戯曲「夏の夜の夢(A Midsummer Night's Dream)」である。それを基にしたメンデルスゾーン作の同名タイトル曲の中には、パパパパ~ン♪――という結婚式で良く使われる有名な一節がある。夏至と結婚は、どちらも最高の季節が始まるイメージであろう。
 我が国の大抵の地域は、高温多湿の疎ましさが控えているが、卓上の航海は、至福の夏を迎え入れるような良いイメージをもって進んでまいりたい。筆者は今、この節目の航海に備えて、先のメンデルスゾーンの曲を聴きながら舵を取っている。

 世間では、舵取りをAIにゆだねる技術が話題になっている。筆者は、試してみたことはないが、自動生成された文章とやらをネット上で読んだとき、素直に驚いた。後に、物書きの端くれとして、虚しさを禁じ得なかった。すでに、人が若干手直しさえすれば、知的な文章と評価できる。ゼロからイチを生み出す苦労すらAIが担ってくれる。
 未来は、当然そうなるであろうと予想していた。三年前の八月――つまり、この舟旅が始まったばかりの頃、「未来の純文学」という小説を航海した。舞台は、AI(作中ではロボット)が筆を執る時代である。読み返したところ、戦後百三十年という設定に自嘲した。今から六十年も先であり、我ながら考えが甘い。
 AIの進化するスピードは、筆者の予想を遥かに超えている。そう遠くないうちに、壮大な伏線を回収する長編小説も、魔法のようにパッと自動生成できてしまうかもしれない。

 そのような時代に生きて、何を書くべきか。――いや、何を書きたいか。

 結局、筆者自身の内面にひそむ “深海” に行きつくであろう。舵取りは、大衆受けに向かわない。ナルシシズムと言われようとも、他の誰も知り得ない深海の魅力を見出したい。
 というより、筆者のみならず、誰も大衆受けを目指さなくなるのではないか。遅かれ早かれ、そのような芸術全般は、上手な創作方法が勤勉に取り入れられているほど、AI風に感じられる量産型の作品に堕ちてしまい、「本当に人が作ったのですか? 人がイチから作ったなら凄いですね」などと言われかねない。

 純粋な芸術とは、作りたいものを作ること。

 売れないと割り切れば、大海原を鷹揚に航行するように自由な表現が可能である。
 逆に、売ることを目的として、より多くの人に見てもらう為には、時代の傾向や禁忌などにも気を配らなければならない。昨今は、政治的正しさ(political correctness)が過剰に求められる。差別表現が含まれていれば、訂正を余儀なくされる。膨大な製作費をかけた映画などは、作り直すことが困難である為、一大事になる。

 二十年程前から、政治的正しさを旗印に、先進国では言葉の置き換えが新たな常識として幾つも行われている。言葉のみで成り立つ文学は、当然ながら大きな影響を受ける。過去の偉大な作品も例外ではない。
 著名なその一つは、十九世紀に執筆された「ハックルベリー・フィンの冒険(The Adventures of Huckleberry Finn)」である。本国アメリカの改訂版は、多用されているniggerが、奴隷を意味するslaveに置き換わった。niggerは、不適切を承知に申し上げると、黒んぼである。
 文学史の金字塔たる作品に手を加えることは、論争の的になるであろうが、現代の物書きが黒んぼ、或いはそれに類する言葉を多用したとなれば、十九世紀のアメリカが舞台であっても、野蛮で無教養と切り捨てられる。

 明らかな差別表現は、論を俟たないが――
 行き過ぎた配慮を危惧する声も盛んである。反目する推進派との溝は、次第に深まっている印象を受ける。社会全体で諸々の多様性を認めようとするほど、分断という皮肉な結果を招いてはいないか。
 多様性と個人主義は、不気味に親和性が高い。

 筆者は、小説の登場人物を書く際に、男女をきっちり “区別” している。性的少数者を自然な有り様として取り上げることはあるが、その社会規範の土台たる区別を曖昧にしない。流行りの中性的な名前は、音の響きを大抵好ましく感じる一方で、作中での使用を避けようとする。さらっと書きたい端役であれば、猶更である。
 あくまで持論だが、中立的な言い回しは、時に芸術性を侵害しかねない。保育士さんでは、伝えたい性別を内包できず、女性の保育士さんでは、文章のリズムが乱れやすい。補足説明は、芸術全般に不要である。

 本稿の最後に申し上げておきたいことは、我が航海に意識的な差別はなく、少なくとも、どなたかを侮蔑する意図はない。その上で、不適切な表現を気にしすぎることなく、自由闊達に舟旅を続けたい。
 似たような作品は、容易く自動生成されるかもしれないが、イチから作り上げる喜びまでは、決して奪わせない。

 文学とは、書く行為そのものである。

                          令和五年六月八日

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