視点を変えるまで その1

このコラムの初めに長女が中1、次女が小4になるタイミングで父親を日本に残してアメリカに行って母娘で英語を身につけようと決断した理由はかいつまんで書きました。いつ行動に移すかのタイミングについては以前書きましたようにCISVの理念に影響されています。しかしそれ以外にも色々な経験や出会いが影響しているのでそのことを書いて、いよいよアメリカに出発した時からの話に移りたいと思います。

語学を習得するにはその言葉が話されているところに行くことが一番だと言われても結婚して子供もいる私にはその選択肢は全くありませんでした。1980年後半の頃の話です。そんな時カナダに移住したイトコがカナダ人のご主人を連れて帰省しました。彼らは私の家に2週間滞在することになりました。そのとき娘達は2歳と5歳ぐらいでした。私が英語を母国語とする人と親しく話をしたのはこの時が初めてでした。今のように外国人の先生が学校に来ることもほとんどなく、大学でもほんの数時間の集団レッスンをテキストに沿ってやるという程度でしたから。

それをきっかけにやっと英語の勉強をしっかりしようと思い始めました。それでもなぜか語学学校に通おうとか、英語の先生に個人レッスンをしてもらおうという発想はありませんでした。考え出したのは大胆にも英語を教えるという方法でした。人に教えれば恥をかきたくなくて自分も勉強をするだろう。それにお金も稼げるという魂胆です。

最初から自分でやるのは無理だったので、ある英語を教えるグループに入り、そこの教材を使って子供たちと一緒に英語で遊ぶことから始めました。その組織では英語で劇をするのがメインの活動で、それ以外は自由に工夫して子供たちに接することが可能でした。この経験はそれ以降の私の英語講師生活の核となりました。もちろんその為に私も必死で勉強したのです。

そのグループに属していた時は年に一度の発表会を開催しました。生徒全員で英語の劇をするのです。私自身も苦手な暗記にも挑戦し、講師の発表会の劇で一番長いせりふのナレーターも買って出ました。そのとき3歳の次女にアナウンサーの役をやらせたのですが、テープを聴くだけで覚えた1分間ほどのせりふは、わが子ながらすばらしく、次女はこの経験がそれからの語学習得の種まきになったのではないかと思います。

そのグループは自由に教えるやり方を工夫させてくれるのでよかったのですが、そのような組織に属すると多くのペーパーワークや生徒募集など色々な制限があります。私はそれになじめず1年でやめてしまいました。そのとき買った講師用の教材代約15万円は、そのとき教えた4,5人の月謝で支払う事ができました。生徒たちにも購入させるよう勧められましたが、生徒の負担になると思い買わせませんでした。でもその教材はとてもすばらしくその後も自分や娘達のために長く使いました。

組織をやめて短い雇われ講師時代が終わるとすぐに、全てを自分でやる方法を考え、英語を教え始めました。所属していた組織はやめてすぐに独立することを禁止してはいませんでしたが、道義上その教材を使わないこと、月謝を組織にいたときの1/5にすることを決めて始めたのです。

この頃から娘達には努めて英語のテープを聞かせることにしました。我が家はTVを見せないという方針だったので、その代わり食事の時など英語のテープや歌をいつもバックグラウンドミュージックのようにかけていました。あるときラジオの英語番組を何気なく聞いた次女が「今『ギター』って言ったからこの話はギターのことを言ってるんだね」と言いました。自分の知っている言葉を音とつなげて推測したのです。

母国語でも全てを聞き取ったり理解することは難しい。それでもやっていけるのは、自分の知識を使って推測でその穴を埋めているからだと思います。言葉を学ぶときに自分の知識とつなげて推測するということはとても大切だと思います。ですから教えていた子供たちにも色々なことに興味を持つように言います。色々なことに興味を持つことで、色々な視点から物事が見れるようになるからです。続きます。

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