Tomo

これは私 (Tomo) の母が1988年から2年間子連れ留学をした時の想いを載せたもの…

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これは私 (Tomo) の母が1988年から2年間子連れ留学をした時の想いを載せたものです。父は2018年に他界しましたが、母は鹿児島の語学学校で、まだ現役で英語を教えています。私の現在はブログ、「異文化空間」http://ibunkakukan.blog.jpで読めます。

最近の記事

いよいよアメリカ生活開始!

ようやく入国審査を通過して手荷物受取所(Baggage claim)でスーツケースを引き取って外に出ると、留学センターの現地世話人のY子さんが私達の名前を書いた紙を持って迎えに来てくれていました。それからY子さんの車で私達がこれから住むアパートに直行。5月の空は澄み渡りなぜか解放された気分の30分のドライブでした。   アパートで先ず目に入ったのは真っ青な水を張ったプール。プールは複数の2階建てのアパートの建物に囲まれた中庭のマネージャー室のまん前にありました。柔和な初老のマ

    • 出発そして入国審査

      出発を数日後に控えて夫婦喧嘩をし、初めて私が家出をしました。いままでは夫婦喧嘩の時は夫が家を出て行っていました。それも子供が生まれる前の頃ですが。原因は覚えていませんが、その時は夫の言うことにどうしても納得できなくて話し合うことをあきらめたと記憶しています。家出といっても近くの人通りの少ないところで星を見ていました。そこへ父娘3人で探しに来てくれました。娘達は本当に心配したようでした。それが夫にも伝わったようだったのでその気持ちにほだされて家に帰りました。ほんの数十分の家出で

      • 渡米するまで

        さて、前置きが長くなりましたが、私と娘二人の留学の話に戻ります。 留学をする事を決めたのは、長女と夏休みにヨーロッパに旅行をした後の1987年の秋でした。その後、どの国に留学をするか迷っていたのですが、2学期が終わった冬休みに次女も連れてカナダに下見に行き、金銭的に子供一人につき月5万かかる事が分かり、最終的に子供にお金のかからないアメリカに留学するのを決めたのが、1988年の1月です。 渡米手続きは今ならインターネットで調べたり、手続きも自分で簡単にできるようですが、19

        • 視点を変えるまで その3

          もう1つ目からウロコの経験をしました。長女が小学4年の時建築士をしている父親が研修旅行でヨーロッパに行き、すごく感銘を受けて帰ってきて、ふた言目には「百聞は一見にしかず」と言うようになったのです。現地で自分の目で見たり経験することの大切さを実感したようです。その経験から翌年私と小学5年の長女にヨーロッパ旅行をさせてくれました。その時のヨーロッパでの長女のイキイキとした様子が忘れられません。長女自身もあの経験は自分の宝だと今でも言います。 その旅行中にフランスで勉強したことの

        いよいよアメリカ生活開始!

          視点を変えるまで その2

          我が子への接し方で視点を変えるきっかけになったのは長女の幼稚園を選ぶ時のことです。ちょうど次女が生まれて長女が次女にやきもちを焼くようになっていた頃です。住んでいる所が近くに遊ぶところもなく子供たちもいないところだったので、少しでも子供たちに触れる環境に入れたくてカトリックの幼稚園に電話したときのことです。電話に出たシスターに「子供に期待してはいけません」と言われました。ずっと子供に期待しすぎていた私には、衝撃的な言葉でしたが、私が実際視点を変えるまでには相当時間がかかりまし

          視点を変えるまで その2

          視点を変えるまで その1

          このコラムの初めに長女が中1、次女が小4になるタイミングで父親を日本に残してアメリカに行って母娘で英語を身につけようと決断した理由はかいつまんで書きました。いつ行動に移すかのタイミングについては以前書きましたようにCISVの理念に影響されています。しかしそれ以外にも色々な経験や出会いが影響しているのでそのことを書いて、いよいよアメリカに出発した時からの話に移りたいと思います。 語学を習得するにはその言葉が話されているところに行くことが一番だと言われても結婚して子供もいる私に

          視点を変えるまで その1

          ちがう環境の力 その2

          当時日本の私たちの地域の成績の評価(通信簿につける)は1〜5までの5段階でクラスの人数の5%が1と5、2と4は何パーセント、残りが3と決まっていました。つまり相対評価です。いくら頑張っても優秀な子が多ければ評価は下がります。東大に行った生徒が3人もいた長女が6年生の時のクラスで国語や算数で5を取るのは至難の業だった訳です。 一方アメリカではテストで90%以上取れば A、80%はB…と絶対評価でした。ですから人と比べるのではなく、決まった基準と自分を比べるのです。テストの成績

          ちがう環境の力 その2

          ちがう環境の力 その1

          算数で苦労している頃、(苦労していると思っていたのは母親の私だけだったのですが)鈍感なはずの長女が日本の中学校に行きたくないと言い始めました。その頃の中学校は校則が厳しく、校内暴力も身近な問題でした。友達間の上下関係も大変だというのをどこからか聞いてきたようです。私もドリルを破り捨てては買ってくるという毎日に疲れていました。だからといって塾にやろうという発想は全くありませんでした。 そこで環境を変えよう。つまり今の状況から逃げさせてみようと思いました。ちょっと大げさですが日

          ちがう環境の力 その1

          教育ママゴンの反省 その2

          もう少しで嫌いにならせるところだったものがもう一つあります。それは算数です。私達の県では毎学期終了前に県内の小学生を対象にした県版テストという学力テストがありました。それまでなぜかその結果に全く興味なかったのですが、あるときPTAで多くの親がその結果をすごく気にしていることを知りました。 そんな時娘が持ってきたテストの結果は正確には覚えていませんが80点台だったと思います。今までほめるべき点数の80点がそのときから違って見えました。なぜならそのテストは比較的簡単で満点を取る

          教育ママゴンの反省 その2

          教育ママゴンの反省 その1

          子連れ留学をするに至った経過は簡単に触れ、また外国語を習得させるタイミングについても書きましたが、その前に時間をさかのぼって、この決断をするに至った経過を恥を忍んで書いておきたいと思います。1980年代の話です。当時私は今ではほとんど聞かなくなったいわゆる「教育ママゴン」でした。 長女は3歳からピアノを習いはじめました。特にピアノを弾く環境でもなかったのですが両親とも音楽を聴くのは好きでしたし、娘も歌を歌うのも好きだったので、とりあえずピアノのレッスンを受け始めました。

          教育ママゴンの反省 その1

          なぜアメリカにしたのか

          子連れ留学する時期は決めたものの、なぜアメリカに留学することにしたのかその背景をお話しなくてはなりません。 始めは娘達の英語教育のために海外に行くつもりでしたから、英語圏で安全で日本との為替レートも悪くない国にしようと思っていました。ちょうど親しいとこがカナダのバンクーバーに住んでいるので下見に行きました。当時インターネットはない時代でした。ところがカナダでは税金を払っていない私たちの場合、公立学校でも日本円にして、ひとり5万円/月の授業料を払う必要がありました。 その上

          なぜアメリカにしたのか

          子供に外国語を習得させるタイミング

          子供に英語(母国語以外の言葉)を身につけさせることに関してはタイミングがあるそうです。私達は日本人としてのアイデンティも持ちつつ国際的に活躍できるようにと思っていた時にCISVという子供のためのプログラムを知り、その理念に賛同して下の娘の年に合わせて決めました。CISVのサイトに次のような文があります。 CISVの始まりと目的 第二次世界大戦後、アメリカの心理学者であるドリス・ アレン博士は「平和を築くための核は子どもにある」と 考えました。そしてその確固たる信念のも

          子供に外国語を習得させるタイミング

          はじめに

          1988年5月から1990年6月にかけて娘二人と私は夫(娘達の父親)を日本に残してアメリカに英語の勉強に行きました。 そこに至る過程は長くなるので端折って書くと、当時教育ママゴンだった私、英語力をネイティブの子供達並みにつけたいと思っていた父親、日本の中学に行きたくないと言った長女、子供の発達に関する情報などのベクトルが子連れで母親がアメリカの大学で勉強するという一石三鳥の方向へ向かった結果です。 でも何故このタイミング(長女が中一、次女が小4)で子連れ留学をしようと思っ

          はじめに