意識改善

どうも、ねこだぬきです。

自己肯定感についての記事を投稿する予定でしたが、書きたいことができてしまったので、そちらについて記載したいと思います。

回避型の愛着障害について調べていた時のことです。

私の尊敬する元彼は回避型の愛着障害だったのではないか?
と、ふと思いました。

お互いが自立していることを好み、どこか人を踏み入れないようにしているところがあったからです。

不安型の私には、回避型のような人と深い関係にならなくても平気。といったスタンスはとても羨ましく思えました。

しかし、恋人と心から通じ合えないというのは苦しいものだとも感じました。

そこで、恋人が回避型である人たちはどのようにして関係を続けているのかを調べました。

回避型である恋人に合わせるしかない
回避型に寄り添う

など様々な回答がありましたが、目に止まった回答がありました。

「医療が発達すると不思議と病気が増える。昔は病名なんてなかったのに、今では病名がつき、病名があることで、その枠にとらわれてその枠の中でしかその人をはかろうとしなくなる。だから病名にとらわれず、その人はそういう人だと思えばいいじゃないか。」

そういった文面だったと思います。
(サイトを巡りすぎてどのサイトか分からなくなってしまい、記憶も曖昧ですみません…)

私はこの回答を見てからかなり考え込みました。

病気によっては、病名がついたことで安心する人もいると思います。

実際に私も安心しました。

でも確かにその枠の中だけでその人を判断するのは違うということに気づきました。

明確に愛着障害の回避型だ!といっても十人十色、傾向が似てるだけで全く同じという人はいません。

人間は一言では表せないくらい複雑な生き物です。

そこで、元彼のことを思い出してみました。

確かにあの人は回避型かもしれないけど、回避型に当てはまらない部分もあったなと気づきました。

回避型だからといって、必ずしも人に壁を作るわけではないし、必ずしも心が通じ合えないわけではないと思いました。

私の元彼は友達も知り合いもとても多いですし、かなり人のことを考えてたりします。

自分の話をするのが大好きで、永遠に自分の興味があることについて話すような人でした。

ただ人に深く立ち入られそうになると少し距離をおいてしまう。

そういう人なだけだったんだと納得しました。

そこに気がついた時、私は何でも枠に当てはめて考えすぎていないかを考えました。

今回の愛着障害だけではなく、大きく言うと
友達はこうあるべきとか、恋人はこうあるべきとか…
もっと自由に、この人はこういう人、自分はこういう人、と
各々を個々として見れるように意識を変えなければならない。
そう考えさせられました。

今回はこの辺で。

次回は書こうとしていた自己肯定感についての記事を書きます。
読んでいただきありがとうございました。
それではまた

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