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寝台列車でひっそりと酒盛り。昭和の“乗り鉄旅”が羨ましい、内田百閒『阿呆列車』シリーズ

「こんな旅がしてみたい」と、激しく思わされるのが、“元祖乗り鉄”ともいわれる作家・内田百閒の紀行文『阿呆列車』シリーズ

「何にも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」ということで始めた乗り鉄は、北は青森、南は鹿児島まで、東京から往来し15回にまで及んだ。『第一阿呆列車』『第二阿呆列車』『第三阿呆列車』と、三冊の本にまとめられている。

阿呆列車シリーズは、用事もないのに、ときには借金をしてまでただただ汽車に乗り、車中でお酒を飲んだり、何時間もホームで電車を待ったり、宿に泊まってはやはりお酒を飲みあくる日は何もしないでぼーっとしたり、ときには人に誘われてお酒を飲んだり、する話である。改めて文字にしてみると、ただ酒を飲んでぼっーとしているだけ? しかし、百閒先生のこの旅が、私にとっては「羨ましい!」の一言なのだ。

乗り鉄が今の10倍面白そうで羨ましい

今は「乗り鉄」という言葉まで出現し、電車に乗ること自体を楽しむ人が存在することや、電車に乗ること自体を楽しむ旅もあるのだなと、多くの人に認知されている。その楽しみを、恐らく一番最初に紀行として残した人が百閒先生だ。が、しかし、今の乗り鉄と『阿呆列車』シリーズが書かれた頃(1950年から1955年)の乗り鉄は、まるで別のものだろう。当時は大阪〜東京間まで半日かかるから、きっと車窓の見え方も違う。まだ蒸気機関車があるし、食堂車や展望車も存在し、一等車、二等車、三等車と、車両の階級がある列車も。寝台列車もある。駅弁売りもいる。

汽笛やシュッシュという音を聞きながら、景色を眺め、一息ついたら食堂車でお酒を飲んだり、ごはんを食べたり、タバコを吸ってぼうっとしたり。半世紀以上前のそんな乗り鉄を体験できない私は、“百閒先生の旅を文字で追う旅”でしか、楽しめないのである。

息の合う相棒がいるのが羨ましい

百閒先生、臆病ゆえにひとり旅はできず。阿呆列車の旅はヒマラヤ山系というお弟子さんらしき方を伴っている。本シリーズを読み始めたときは「え、なに?ヒマラヤ?」と不思議に思い調べてみると、平山さんという方で、それを文字って、ヒマラヤ山系と呼び、最終的には「山系」と呼んでいる。

「泥棒のような顔をしている」とか山系氏のカバンを「それは随分きたならしいね」とか百閒先生の失礼な言い草に思わず吹き出してしまうのだけど、互いに余計なことをしゃべらず、お酒好きというところでもウマがあう2人。繰り広げられる間の抜けた頓珍漢な2人の会話なしには、阿呆列車の旅は成り立たない。

列車での酒盛りが羨ましい

お酒好きにとって、旅とお酒は切っても切れないものだ。百閒先生も旅中、毎晩お酒を美味しく飲むために、昼酒厳禁というルールを守り、夜に思う存分楽しんでいる。

食堂車で、宿で。そして、ときには、寝台列車の喫煙所で。

 汽笛な一声動き出したから、始めた。
 二人並びの狭い座席に、二人で並び、だから弁当を置く場所がないので、膝の上に置き分けた。魔法罎は背中寄りの所へ置き、一一手を伸ばして引き寄せて注いだ。
 うしろの窓のカアテンは揚げておいたけれど、外が暗くはあるし、お月様は見えず、何しろ真後なので振り向かなければ何も見えないから、外を見ることはあきらめた。目の前の、通路を隔てた洗面室の緑色のカアテンが、あまり暑いのでそこの窓を一寸許り開けた隙間から吹き込む風にあおられて、ひらひらするのを眺めながら、献酬する。酒の肴は、鶉の卵のゆで玉子、たこの子、独活とさやえん豆のマヨネーズあえ、鶏団子、玉子焼き、平目のつけ焼と同じく煮〆等である。
「山系君、面白いねえ」
「何がです」
「汽車が走っていくじゃないか」
「そりゃそうです」
「だから面白いだろう」

夜の列車で酒盛り。酒の肴、美味しそう……。ラブロマンスよりも断然胸にグッとくるシーンだ。

今でも夜の電車で酒盛りはできるだろうけども、汽車を眺めながらというのは不可能に近い。ほろ酔いでそのまま電車で朝を迎える、ということも、もはや貴重かつ予約困難な寝台列車「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」でしかな叶わない。

長くて引用できないが、この先の2人の会話に私は爆笑してしまった。ぜひ『第二阿呆列車』で続きを読んでほしい。

「イヤなことはしない」ことが羨ましい

早起きは苦手だから目的地には2日かけて行く、名所に連れて行かれても興味がなかったら見ない、電車に乗り遅れそうだけど自分は悪くないし走りたくないから走らない、イヤなことはしない、興味のないことはしないという潔さは、読んでいて気持ちがいい。

忙しい現代人が旅行に出ると、つい、あそこへも行っておくべきと欲張ったり、同行者に気を使ったり、ということをしがちだけど、そもそも日常を忘れて自分を楽しませるために行く旅行でそんなことをしてどうする。ただでさえ、天候やら列車や施設のスケジュールなど、思い通りにいかないこともあるわけで、百閒先生を見習い、自分のやりたいことくらい自由にやろうじゃないかという気になる。

*****

百閒先生は、これらの羨ましいあれこれをするすてきな旅をしていたわけだけれども。やはりこれらが面白く読めるのは、百閒先生が優れた洞察力をもつ名文家だから。百閒先生や山系氏の個性によるところが大きいけれど、加えてユーモアに溢れた文章を紡ぐ技がピカイチで、何度も声を出して笑ってしまった。

『第三阿呆列車』まで読み終えて、さらにお気に入りの箇所を読み返していたら、半世紀以上も前の旅が描かれているようには思えなくなっていた。今日もどこかで、百閒先生と山系君が汽車に揺られているような、阿呆列車はまだ終わっていないような、ふわふわとした気持ちになっている。





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