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ハーモニー

この本を読んだのは2022年の春だった。

とある取材に同行する形で千葉に行き、その帰りに千葉市の大きいBOOKOFFで購入した。その頃はすっかり読書から足が遠のいていた時期でもあったのだけど、帰りの電車でまとまった時間が確保できたこともあり物語の世界に久しぶりにどっぷり浸れたのが印象に残っている。帰り際に唐揚げ屋さんで一杯入れたことも一役買っていたのかもしれない(適度な飲酒は視野が狭くなって、逆に何かに集中しやすかったりするのだ)。

この作品は若くして亡くなったSF作家、伊藤計劃氏が書き上げた最後の長編小説だ。舞台は21世紀後半、”大災禍”と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は徹底的な福祉厚生社会を築きあげる。そんな中で台頭したのが生命主義(ライフイズム)。構成員の健康を第一としたその思想を根幹として、世界は見せかけの優しさや倫理観に包まれていた。この物語は、そんな世界を憎み自殺を試みた少女達の話。少女たちが自殺を試みてから13年の月日が経ち、死ねなかった少女トァンは世界を襲う大混乱の背後に、ただ1人死んだはずの少女の影を見る。

生命主義

〈dictionary〉 
〈item〉【生命主義】〈/item〉 
〈description〉生命至上主義(英:Lifism)。構成員の健康の保全を統治機構にとって最大の責務と見なす政治的主張、若しくはその傾向。二十世紀に登場した福祉社会を原型とする。より具体的な局面においては、成人に対する充分にネットワークされた恒常的健康監視システムへの組みこみ、安価な薬剤および医療処置の「大量医療消費」システム、将来予想される生活習慣病を未然に防ぐ栄養摂取及び生活パターンに関する助言の提供、その三点を基本セットとするライフスタイルを、人間の尊厳にとって最低限の条件と見なす考え方。〈/description〉 
〈/dictionary〉

この世界は伊藤計劃氏の前作、『虐殺器官』と同じ世界線に位置している。その世界のラストでは世界が混沌へと突き進んでいく様子が描かれており、それから核戦争や、疫病の蔓延を経て本作品の世界へと繋がっている。大混乱を経験した世界は先の通り、極端な福祉厚生社会へと舵を切った。

アルコール、ニコチンは当然のように社会から排除され、カフェインさえも忌避されるようになった世界。人々は政府のサーバーにカラダを繋がれることで常に健康状態を”ウォッチング”されている。健康コンサルタントから生活指標を受け取り、外食の際にはそれによる健康被害の可能性を表示することが義務付けられている。そんな風に人を大切にした世界では、当然求められる規範も異なるものだ。いじめなどというものはもってのほか、他者を労わり慈しみ、他者と美しく”ハーモニー(強調)”を奏でていることがあるべき構成員の姿とされる。そんなハーモニーを維持するためにも、人々は定期的にセッションを行ない、そんな絆をより強めていた。

しかしこうした世界をして、自殺者は年々増え続けていた。それは当然の結果と言えるもので、いくら表面上でハーモニーを奏でていても人間の動物的な感情を消し去ることは出来ない。有形無形の優しさという抑圧に耐えかねたもの達は自殺を図る。そんな人々は生命主義を第一とする社会から糾弾され、抑圧された人々はますます優しさにより首を絞められてゆく。

少女達が自殺を試みたのも、そうした理由から。そこで生き残ってしまった13年後のトァンと言えば、そんな抑圧された世界のスケープゴートを戦場に見出していた。自ら紛争地域に赴き、和平交渉などを行なう政府の手先。でありながら、政府の目の届かない場所で機密情報を明け渡し、その引き換えに害悪とされるアルコールやニコチンを受け取っていた。禁酒法時代のアメリカもそうだが、社会から害悪とされたものの行き着く先は、常にアンダーグラウンドなのだろう。

ホワイト革命

「昔は王様がいた。王様をやっつけて、みんなはセカイを少し変えようとした。王様をやっつけたのは市民。要するにみんな。とはいうけれど、みんなで政治をやるには情報の流れが悪すぎる時代だったから、政府というのができて、今度はムカついたら政府をやっつければよかった」

「でもいまは違う。政府の後にできた生府社会には、やっつける人間は存在しない。みんな幸せで、みんなが統治してて、その統治単位はあまりに細切れだから」

理想郷の仮面を被りながらもそうは見えないこの世界。やはりディストピア作品達の系譜を受け継いでいる。その証拠として、『素晴らしき新世界』や『1984』といった代表的作品のタイトルや用語が端々に出てくる。

色濃く反映されている部分はやはり管理社会、いや相互監視社会という要素だ。確かに政府にサーバーを繋がれた人々は常に管理されているが、より注視すべきなのは相互監視社会の方。様々な作品に描かれていることだが、この潮流が高度に進んだ社会というのはシステムよりも各々の言動によって管理される。

生命主義を根幹として様々な制度が作られた世界の中で、人々は内面も移り変わっていく。より優しさや慈しみを尊重されるようになり、野蛮さや暴力は忌避するようになる。そんな人々は他者や周囲に対してもそれを求めるようになり、膨大な数となった”それ”は、異端者を排除していく。自らの中にも異端が潜んでいることを見ないようにしながら。

多くのディストピア作品とは違い、この世界では”優しさ”を盾に動いているのだから余計にタチが悪いのだが、この本を読んでいて連想されるのが岡田斗司夫さんが近年(2022年〜)提唱している『ホワイト革命』という予測だ。

これはコロナ戦争(岡田氏はコロナウイルスに関する一連の出来事をこのように表現している)を経て、人類はどんどん清潔になっていく。それは身体的な部分だけでなく、人々の性格や思考にも反映されていくのだという。清潔なものは正しいとされ、悪口や本音は忌み嫌われ、メディアに出てくる人物の発言や作品などは、誰も傷つけない当たり障りのないもので満たされていくというのだ。

こんな岡田氏のホワイト革命という予測は、まさにこのハーモニーという作品の世界観の話だと感じている。というより、この予測を聞いてからはハーモニーという作品の方をホワイト革命のモデルケースと考えているような節がある。

ハーモニーでは大災禍を経て、人々は福祉厚生社会に舵を切った。この現実世界ではコロナ禍を経て、人々はホワイト社会に舵を切っていくというわけだ。誰も傷つつけないために優しさで溢れ、多様性に満ちてゆく。のと同時に世界は多様性という言葉が持つ自己矛盾を無視し続ける。多様性を認める人々は、多様性を認めない多様性を多様性の中に組み込めているのだろうか?ハーモニーの世界ではそんな多様性に組み込まれなかった人々が自殺を図るが、現実世界もそんな構造とそう遠くないような気がしている。

残された動物性への抑圧

「オトナたちは、それまで人間が分かちがたいと自然の産物と思ってきた多くのものを、今や外注に出して制御してる。病気になることも、生きることも、もしかしたら考えることも。」

結局の所、この抑圧されているものの正体はなんなのだろうか。ここまでは野蛮さ、暴力などと表現してきたが、つまるところ”残された動物性”なのだと思う。この物語において身体は政府のサーバーに繋がれ、健康状態は常にウォッチングされている。生活習慣は健康コンサルタントが提示してくるものに従いながら、毎日の栄養管理は機械から提供されるサプリメントを服用する。”良き構成員”であるための規範はコミュニティのセッション内で議論され、その規範を元に定期的なボランティア活動に従事する。

人間は社会的な動物、というのはもはや疑いようがなさそうな考えではある。じっさい人類はそうして文明を発達させてきた。しかしそうした進化が人の動物性を抑圧しているのではないか、とも考えてしまうのだ。

「人間は進歩すればするほど、死人に近づいてゆくの。というより、限りなく死人に近づいてゆくことを進歩と呼ぶのよ。」

この物語の登場人物のセリフだ。社会システムの整備によって、テクノロジーの進化によって、そしてそれによって形成される社会によって、人の動物性は抑圧される。野蛮さはどんどん駆逐される。残った野蛮さは優しさによって押し潰される。

そんな風に考えると、自殺へと向かう人々というのは行き場を無くした動物性が臨界点を超えたのではないかと捉えることもできる。人類の進歩は、人類を人類ではないどこへと連れてゆくのだろう。

デッドメディアはどちらか?

「そうでしょうか、私は逆のことを思うんです。精神は、肉体を生き延びさせつための単なる機能であり手段にすぎないかも、って。肉体の側がより生存に適した精神を求めて、とっかえひっかえ交換できるような世界がくれば、逆に精神、ここのほうがデッドメディアになるってことにはなりませんか。」

果たして、この物語の結末は人類が魂を手放すというものだ。

冒頭の引用は、ある教授が「精神がアップロード可能になれば、肉体は人間にとってのデッドメディアになるのではないか」という言葉に対して返答したもの。精神をデータとしてアップロードする。SFでよくあるような話だ。僕の大好きな『攻殻機動隊』も、肉体性の限界と、テクノロジーとの融合が主題の一つだった。人間は生きていると、ともすれば精神の側を”唯一神聖なもの”と考えがちである。しかしこの世界においては、肉体の側を生き延びさせるという形で物語が集結する。

このどちらに正解があるのか。自分自身に結論は出ていないし、おそらく結論が出るような話ではないだろう。ただし、進化論的な見地から補助線を引くのならば、この精神の方がデッドメディアとなり得るという話はかなりの説得力を持つものとなる。

進化論的立場においては、人がもつ性質や器官は全て何らかの理由が生まれた(残された)という考え方をする。これは手足や内臓器官のような肉体的なものもそうだが、これは僕らの感情といった精神の部分にも当てはまる。すなわち、怒りは生殖のために有利に働く機能であるし不安は肉体を危険から逃がすための機能である、ということだ。この辺の話は『種の起源』の原著を読みきれてないからあまり偉そうなことは言えないが、鈴木祐さんの書いた『最高の体調』という本がこの辺を噛み砕いて書いてあるのでお薦めだ。

ともかく、そのように考えるのならばデッドメディアは精神の側ということになる。今こんな風に文章を書いているのも精神的な活動な訳で、この結末には拒否感を感じ得ないところではあるけれど、確かにその論理だと説明ができてしまうのだ。だがこの問題を考え、先に述べたホワイト革命のような現実問題に目を向けて考察を進めると、これらには2つのベクトルがあるように思う。すなわちGeneの進化とMemeの進化だ。

考察といいつつ繰り返しにはなりそうなのでご勘弁を。Geneは遺伝子の側、つまり肉体の進化の側だ。この進化の終着点は本作品ハーモニーの魂を手放すというものだとする。一方でMemeはいわゆるミームと言われるものだ。つまりよくあるSF、最終的に精神をアップロードし、肉体を手放すという進化の側。これら2つのベクトルがあって、両者が人間を押し潰しにきている。というイメージが僕が今考えているところだ。これから押しつぶされるのか、それとも互いのベクトルはぶつかることなく通り過ぎるのか、はたまた押し潰される前段階で人類がどこかしらにジャンプするのか。実際どうなるのかは分からないが、これについて考えるのを、最近僕は楽しんでいたりする。

話を物語に戻すが、精神を手放した人類は果たして幸せなのだろうか?おそらく、幸せなのだろう。少なくとも本能のままに、野生で生きている動物たちが鬱病になっていたりだとか、自殺しているという状況はなかなか考えにくい。それらは様々な社会的要因が複雑に絡み合ったりだとか、閉鎖的な環境で抑圧されたりした結果として起こる、ごく人間的なものだ。

ジャンルは違うが『キノの旅』の1エピソードでも、同じような話が出ていた。選ばれし賢人たちだけが人間的な知能や精神性を獲得し、それ以外の国民は動物のように裸で本能のまま暮らしているというもの。そして賢人たちはと言えば、知能獲得前に戻りたいと嘆き、自殺するものも跡を絶たないという。同じような主題を考えた作品は、きっと他にもあるのだろう。

幸せとは何なのか?幸せなら良いのか?精神を手放す選択肢は用意されていない人類だが、そんなことを考えさせてくれる、そして現代社会とも繋がることも非常に多い作品だ。

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