「ママ」をもう一度人間にするために―『約束のネバーランド』と『かか』より(1/2)

第65回群像新人評論賞最終候補に残った「「ママ」をもう一度人間にするために―『約束のネバーランド』と『かか』より」の前半です。
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「ママ」をもう一度人間にするために―『約束のネバーランド』と『かか』より (1/2)
角野桃花

 文学はいつも「ママ」をいないことにしている。
 頓狂なことを言い出したと思うだろうか。たしかに、母というひとりの人間の身体に縫い付けられた「母性」という概念については、文学は饒舌だった。
 文学と「母性」といえば、まず誰もが思い浮かべるのが江藤淳の『成熟と喪失』だろう。この評論では、「恥ずべき父」を土台に作り上げられた濃密な母と息子の関係と、近代が到来してからの母の崩壊について書かれてある[1]。治者としての父が存在しない中で、息子が「成熟」して他者に出会うためには、母の崩壊とそれに対する罪悪感が不可欠である。そして、その母の崩壊を促すのは、近代のもたらす解放に向かって自己のうちにある母を壊したいという女性の欲求でもあった。
 引用元がいささか古いというのであれば、川田宇一郎の『女の子を殺さないために』はどうだろう[2]。こちらは女の子が死ぬ物語がたくさん生み出された背景について論じており、『成熟と喪失』同様に、治者としての父を倒す物語が成立しないことを前提にしつつ、甲斐甲斐しい専業主婦としての母の包囲網を男の子が抜け出すための物語が求められたと述べる。そして女の子こそが、その母の包囲網を脱出するための下降の動きができる存在であり、女の子を母にさせないために殺してしまうのだと。
 なるほど、母が息子にとって大きな壁であったことはよく分かる。息子は母がいる限り、永遠の子どもだった。だが、どちらもあくまでも「母性」について語っているに過ぎない。文学の語る「母性」は、生身の人間から遠く離れてしまっているのではないか。たとえば、『成熟と喪失』では、何もかも受容する大地が持つような、神道的な神性として母を捉えている。『女の子を殺さないために』では、母とは子どもを包み込んで逃さない「ネットワーク」であると表現される。文学が母について語るとき、個人を超越した概念の「母性」とシームレスに捉えてきた。
 しかし、どうして母という生身の人間に普遍的で神的な概念が宿るのが当然のように語られるのだろうか。治者としての父があれほどあっけなく崩れ去り、「父性」という概念が弱体化したのに、「母性」の巨大な心音はいまもなおこの世界に響いている。
 それは、「母性」という概念にアクセスし、それを利用して生き延びることで、その概念をより強化している人間が存在するからではないだろうか。息子に立ちはだかる「母性」という概念が母という人間の姿をとって現れる以上、「母性」を心に宿し、いまに至るまで顕現させ続けることで持続させてきた人間の「ママ」が山ほどいるのではないか。ここからは逃げられないというじっとりとした絶望を与えるほどの「母性」に乗っ取られた「ママ」、あるいは自ら進んで心を明け渡した「ママ」が、いまもたくさん。
 なぜこんなことになってしまったのかについて考えねば、この世界はいつまでも「母性」の胎内から出ることはできない。それなのに、いつだって文学は「ママ」たちの存在を忘れている。
 もちろん、文学がいつも身を捩って逃げようとしてきた閉塞感、それが「ママ」たちが支えてきた「母性」のせいであることは否定しない。だが、「母性」と「ママ」を区別せずに論じたことの代償は大きい。論じて言葉や名前を与えることで、かえって「母性」という概念を人間の裡に存在させてしまっている。本来であれば人間を超えた、それこそ神的な概念として在るはずだった「母性」が、ある段階で人間というハードウェアに自動的にインストールされるような状態になっていないだろうか。
 だから、まずは「ママ」たちを文字通りの人間に戻すために、彼女たちから「母性」を切り離したいと思った。そのためには、「ママ」と一体化した「母性」から逃げたい、逃げねばならないという結論にいつも着地する息子視点での議論から離れねばならない。本稿は、息子に限定しない子どもの立場から「母性」とそれを支える「ママ」という構造を捉え、「ママ」の行動原理を考え、さらにはその「母性」から逃れるために物語が目指すべき領域を論じるものである。

◯「ママ」は「母性」の人質

 とはいえ、まずは、「母性」を支える「ママ」という構造そのものがそもそも存在するのか、そしてそれはどのように成り立つのかについて論じる必要がある。この構造を描いた作品として、「ママ」になったのは自分が生き延びるためと答える「ママ」が登場する漫画の『約束のネバーランド』を挙げて論を展開していきたい。
 『約束のネバーランド』は、白井カイウの原作と出水ぽすかの作画で制作され、2016年から2020年までの期間で『週刊少年ジャンプ』にて連載された作品である。グレイス=フィールドという自然豊かな孤児院(「ハウス」と呼ばれる)で、血の繋がらない子どもたちが「ママ」と呼ばれ慕われるイザベラという女性によって育てられ、6歳から12歳までに里親のもとへと送り出される、ということになっていた。
 ところがある日、子どもたちの中で最年長のエマとノーマンは「ハウス」が食用児を育てる農園だと気づいてしまう。さっき里親のもとへ旅立ったはずの少女が、「ママ」によって出荷され、異形の鬼へ食料として手渡される瞬間を見てしまったのだ。そして、グレイス=フィールド農園を囲う高い壁の外には人間を食う鬼の世界が広がっていた。「ハウス」の栄養バランスのいい食事も、日々の健康管理も、特殊な教育も、すべて鬼が食べる人間を育てるためで、子どもたちが慕っていた「ママ」は飼育監だったのだ。
 このイザベラという「ママ」こそ、今回の議論で着目する人物である。イザベラの行動には、何でも包み込んで子どもを閉じ込めておいてしまうような「母性」の影がちらつく。子どもたちに対してイザベラの張る包囲網は蜘蛛の巣のようにしなやかで、けして子どもたちを逃さない。
 たとえば、「ハウス」の真実に気づいたエマとノーマンが他の子どもたちを巻き込んで脱走計画を立てていることに彼女が気づいたとき、機密保持や懲罰を目的とした即時出荷を彼らに課すことはない。イザベラは子どもたちを愛しているからこそ、イザベラや農園に対するレジスタンス的な行動を彼女自身が制御できていれば良いと言い、予定された出荷日まで確実に「ハウス」に留めおくという姿勢を崩すことがない。
 さらに、イザベラに「母性」が表れる象徴的なシーンは、「ハウス」を囲む壁まで脱走の下見をしようとしていた食用児たちを逃すまいと、イザベラがあの手この手で外堀を埋めていくところだ。彼女は子どもたちに対して、「逃げるなんて不可能 お外も危ないわ 絶望がいっぱいよ」「お家の中でみんなで一緒に幸せに暮らそう 決められた時間 最期まで あなた達5人にも幸せでいてほしいの」と不気味な笑顔で説得する。それでも下見を諦めないエマを抵抗不能にするため、イザベラは彼女の骨をわざと折り、「ああかわいそうに私の可愛いエマ」「だから『諦めて』と言ったのよ」と優しく抱きしめてあやす。このようなイザベラの姿には、まさに子どもがシビアな外界に触れないように閉じ込めておく歪な「母性」が表れていると言うほかない。
 とすると、イザベラという人物に「母性」そのものが描かれていると言っても問題ないように見える。彼女の一連の行動は一見自発的なものとして描かれており、生身の人間とシームレスにつながる「母性」にヒビを入れることはできないように思える。また、孤児院の「ママ」として自らは子どもを産まないという設定は、神的な「母性」に近づけさせている描写であると指摘されそうでもある。もちろん、イザベラの描写がこれだけに留まるならば、「母性」と「ママ」を切り離して論じる必要なんてない。
 だが、イザベラは食用児を生産するシステムの人質であることが後になって描かれる。イザベラの「母性」的な行動は、彼女自身が食用児生産システムを生き抜くためのものであり、すべてはそれに支配された結果なのだ。さらにとどめを刺すように、実際に自分の子どもを産んだ母であることも明かされ、それも彼女が生き延びるための行為だったと描かれる。このように、『約束のネバーランド』という作品は、「ママ」から神的な「母性」をたしかに引っ剥がそうとしているのだ。
 そもそも、食用児農園の「ママ」は、かつては農園で食用児として育てられた少女であった。日々のテストでハイスコアを出し、「ママ」の推薦をもらった食用児の少女は、出荷の日にそのまま殺されるか「ママ」になるかを選ぶことができる。が、試練はこれで終わりではない。「ママ」になる決意をした少女を待つのはもっと過酷な運命だ。「ママ」になる道を選べば、定められた敷地から一歩でも外に出れば自動的に心臓を止める機械を胸に埋め込まれる。そして、数少ない「ママ」の地位を巡る蹴落とし合いの競争を生き抜き、食用児の子どもを自ら産んで、やっと「ママ」になることができる。
 そして、子どもたちが「ハウス」から外界へ脱走したあと、イザベラは「ママ」になった経緯を思い出しながら、「何もできない 変えられない だからこそ せめて生き続けてやりたかった 食べられない人間として‼」と「ママ」になった理由を述懐する。それと同時に、自分自身の子どもたちへの接し方について「ただ普通に愛せたらよかった(傍点原文ママ)」と悔いてもいる。このような描写から、「ママ」としてのイザベラの行動は完全に自発的なものではなく、あくまでも食用児生産システムに支配された結果と言える。このように「ママ」と「母性」が少しずつ引き離されていく。
 さらに、彼女から「母性」を切り離そうとする決定的なシーンがある。そのシーンとは、それまで農園で育てられているただの子どもと思われていたレイという少年が、イザベラが産んだ実の子どもであることが判明する場面である。農園の森で、イザベラしか絶対に知りえない歌をレイが口ずさんでいるのを彼女は耳にする。彼女自身が妊娠中に歌っていた子守唄をその時は胎児だったレイが覚えているのだと悟り、顔中をめちゃくちゃに引きつらせたイザベラは、レイにそのことを問いただす。イザベラに微笑むことで、以前からその事実に気づいていたことを仄めかしたレイに「ねぇ……なぜ俺を産んだの?お母さん」と聞かれ、そして「“私が生き延びるため”よ」と答える。
 このシーンは、もし『約束のネバーランド』が「母性」と「ママ」を区別していないのであれば、絶対に描かれないはずだ。川田が述べているように、「母性」とは「厳しい外の世界と、自分の間にあるもの」である。もし、イザベラが「母性」そのものであるなら、生き別れた母と息子が再会するちゃちな感動シーンが代わりに描かれたのではないか。少なくとも、イザベラが何もかも受容する大地のような「母性」にすぎないのなら、食用児だった自分が生き延びるためにあなたを産んだと子どもに冷酷に告げる、つまり自分と子どもを切り離して「厳しい世界」へと突き放すことはありえない。
 たしかにイザベラは「母性」的な振る舞いはする。しかし、それはあくまでも彼女が食用児生産システムの人質であるからだ。「ママ」の中にある「母性」は、元からそこにあったものではない。だから『約束のネバーランド』は、イザベラを「母性」として責め立てるようなことはしない。「母性」と「ママ」は癒着してはいるが、核は全く別であるような異なる存在なのだから。
 そして、その「ママ」の上に立つ「母性」を象徴するのが、イザベラを支配する食用児システムのトップ、つまり鬼の世界を統べる女王のレグラヴァリマである。
 女王レグラヴァリマは、まさに欲の化身である。特に、食うことについては醜いまでの貪欲さを見せる。反逆者として鬼の世界の王都に襲撃を仕掛けた脱走食用児たちに「全て命は妾の糧 臣下も民も反逆者も家畜も親兄弟も全て‼」「妾は誰より食うて 誰より強い‼」と宣言する。その後ろには、彼女がそれまでに食った全生命の個体が粘着質な集合体を形成し、わらわらと声をあげながら分厚くうずたかい壁となってそびえ立つ。その様子は、何もかも食う、つまり受容する「母性」の包囲網に引っかかった獲物たちを表すようにも見える。
 だが、これだけでは女王は強欲、特に食欲の象徴としか言えず、彼女を「母性」の象徴と定義するには足りない。では、『約束のネバーランド』において、この女王が果たして本当に「母性」の役割を担っていると言えるのか。
 まずは、女王の核について触れたい。鬼には急所の核があり、そこさえ潰せば身体を再生できなくなり死に至る。女王は特別に二つ持つ核のうち、最後の一つを腹に持つ。女性にとって腹とは子宮がある場所であり、何もかも受容する「母性」を象徴する身体の部位でもある。女王が急所の核を腹に持つということは、女王がただの強欲や食欲の象徴ではなく、そこに「母性」が伴うことを示唆する。
 それのみならず、彼女は何もかも受容する母のような振る舞いもする。女王は「Λ(筆者注:高級肉を効率的に生産する、「ハウス」とは別の農園)の食用児も GF(筆者注:グレイス=フィールド農園)の脱走者も 皆 妾の手に戻る」「皆 妾が食らうのだ」と食用児たちに告げる。そして、恐怖で身動きが取れなくなった食用児たちのうち、エマの頬に女王は手を伸ばし「よい子じゃ」と声を掛けて食おうとする。
 これぞまさに、文学が捉えてきた「母性」ではないか。食用児たちがどれだけ抵抗しようとも、結局は女王に食われてその腹に収まる。その運命に怯えた食用児が身動きできなくなったところへの甘い声がけと、女王の身体への吸収。この描写は、川田が述べたような、子どもが反抗すればするほど彼らを手中に収め、けして子どもを自分のいる世界の外に出さずにずぶずぶと受け容れる「母性」の働きと合致している。
 もちろん、女王は「ママ」であるイザベラのように子どもたちを突き放すこともない。女王は、食いたい食いたいと最後まで言いながら、自らが食ってきた生命に乗っ取られ、それらがでろでろに溶け合った醜く巨大な集合体となりはてる。その様相は、大地のように何もかも吸収する「母性」という概念の醜悪な姿と言える。このような女王が鬼の食用児生産システムのトップに立ち、「ママ」を支配している。
 だから、「ママ」は「母性」の人質だと言えるのだ。鬼の食用児生産システムに命を握られながら「ママ」として子どもたちを育てるイザベラと、彼女たちを支配し、彼女たちが育てた子どもたちを腹に収めてしまう女王レグラヴァリマの構造に、「ママ」が「母性」に支配されていることが見て取れるのである。そして、そのように支配される「ママ」は、たしかに「母性」的な振る舞いをするのである。
 

◯「ママ」は「ピーター・パン」の下僕

 では、なぜ「ママ」は「母性」に支配されるようになったのか。まず、「母性」が統べる鬼の世界に「ママ」を閉じ込めているのは「ピーター・パン」である「パパ」だということから議論を始めたい。
 『約束のネバーランド』の世界には、物語の舞台である鬼の世界とは別に、人間の世界が存在している。物語は2021年の現在から20年ほど後の世界を舞台にしており、その間に様々な災害や戦争を経験して世界から国境が無くなっているなど変化は起きているものの、人間の世界は現在の私たちが見ている現実の社会にかなり近い描写がされる。そこには鬼も食用児も存在せず、ごく普通の人間が共同体を形成し、生活を営んでいる。そして、鬼の世界と人間の世界を行き来することはほぼ不可能になっている。
 だが、かつて鬼の世界と人間の世界は分断されていなかった。約千年以上前、鬼は捕食対象として人間を狩り、人間は自分たちを食らう鬼を滅ぼすための戦いを続ける無秩序な世界があった。そこを、人間のレジスタンス軍の指導者であったユリウス・ラートリーが、世界を鬼の世界と人間の世界の二つに分けた。鬼との戦いに疲弊した彼は、同じレジスタンスの仲間を食用人間の種として鬼側に差し出し、「あの方」と呼ばれる神のような超越的存在と約束を交わした。その約束によって世界は二つに分けられ、人間は鬼に狩られることはなくなった。しかし、その代償として、鬼の世界に食用児を育てる農園が作られ、ラートリー家は二世界を分ける門番の役を代々担うことになった。
 そして、物語内の時系列での今において、ラートリー家当主として二世界の分断を守っているのはピーター・ラートリーである。彼は、エマたち食用児の抵抗を挫こうとし、「僕は食用児の父 創造主なんだぞ」とのたまう。この「創造主」には、「パパ」とルビが振ってあることから、ピーターは前述の「ママ」と対になる存在だと分かる。
 もちろん、ここで描かれる「パパ」は、けして「治者」としての父ではありえない。この「パパ」は子どもを成長させてはくれず、「永遠の子ども」のままにしておくのだ。
 というのも、『約束のネバーランド』における「パパ」は「ピーター・パン」だからだ。戸田慧は『英文学者と読む「約束のネバーランド」』で、『約束のネバーランド』は「永遠の子ども」が登場する物語である『ピーター・パン』のキャラクターや構造を引用していると指摘する[3]。このことは「ネバーランド」が題名に入っていることから大体察することはできるが、重要なのは『約束のネバーランド』が『ピーター・パン』のキャラクターや構造を逆説的に引用していることである。
 それはつまり、『ピーター・パン』における「ネバーランド」は子どもの楽園とも受け取れるが、『約束のネバーランド』での「ネバーランド」、つまり農園は完全なる地獄であるということだ。大人になる前に食われてしまう食用児を育てる農園は、絶対に子どもが大人になれない絶望の地として食用児たちに受け止められている。
 そして、「ネバーランド」を守る「ピーター・パン」の名を与えられたピーター・ラートリーは、食用児たちの死は必要な犠牲だと語り、子どもたちの敵として描かれる。そんな彼は、「ママ」たちを支配し、彼女たちに食用児の出荷を指示する人間でもある。
 したがって、「パパ」は子どもを大人へ成長させるのを放棄しているどころか、「ママ」を支配しながら子どもの成長を阻ませ、「永遠の子ども」を大量に生み出している存在と言える。「パパ」がなぜこのように振る舞っているかというと、食用児たちの犠牲の上に成り立つ二世界の分断を守るためだった。
 では、その二世界は何を示すか。重要なのは「パパ」と「ママ」が二世界に別れて存在することと、分断されている「パパ」と「ママ」が対等ではないということだ。
 まず、「パパ」であるピーターは、エマたちを脱走させてしまった罪で監禁されたイザベラに「あなたも僕ら側ならよかったのに こちらの世界で食用児として生まれたがために あなたのような逸材も終世怪物共の餌だ」と声を掛ける。彼は両方の世界を知った上で、人間の世界からの視点でモノを語っている。
 だが、イザベラはその言葉に対し「“こちら”の世界…?」と驚く。イザベラを始めとした「ママ」たちは鬼の世界しか知らないのだ。つまり、「パパ」は人間の世界に属しながら両方を行き来する一方、「ママ」は鬼の世界しか知らず、そこに縛られている。そして、鬼の世界には食用児を育てる農園があり、特に物語前半の舞台となるグレイス=フィールド農園は「ハウス」と呼ばれる。
 私たちが生きる世界において、「パパ」と「ママ」がそのように分断される二世界、それはつまり公的領域と私的領域の二世界でしかありえない。「パパ」は公的領域に主に身を置き、私的領域にもアクセスできる。だが、「ママ」は家、英語で言うならば「ハウス」を中心に作られる私的領域から出られない。そしてその分断は、『約束のネバーランド』でユリウス・ラートリーという男性が二世界を分けたのと同じように、男性が生み出したものでもある。
 このことこそ、「ママ」が私的領域で「母性」に支配されるようになったトリガーなのだ。そして、その私的領域ではたくさんの子どもたちが「母性」に食われている。しかし、「パパ」は子どもたちを見殺しにしている。なぜなら、「ママ」を私的領域に閉じ込めておいて二世界の分断を守るのに必要な犠牲が子どもたちなのだから。

(後半へ続く▶https://note.com/taohuasumino/n/ne53b9d6beeeb?sub_rt=share_pw

*前半参照文献*
[1]江藤淳『成熟と喪失――”母”の崩壊』、講談社、一九九三年。
[2]川田宇一郎『女の子を殺さないために 解読「濃縮還元100パーセントの恋愛小説」』、講談社、二〇一二年。
[3]戸田慧『英米文学者と読む『約束のネバーランド』』、集英社、二〇二〇年。

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