実家と記憶の話

 私は実家に帰るのが嫌いだ。

 それは、もちろん家族との仲があまりよろしくないというのも大きな理由だけど、なにより過去というものは不確かなくせに私を孤独に追い込んでくると痛烈に感じるから。

 うちは、精神疾患を持つ母を抱えていた。そして、母いわくモラハラの父から逃れて母の実家でくらしていた。母はしばしば鬼になった。
 私はいまさら過去の傷を並べることはしたくない。語るのは本当に疲れるから。繰り返す語れば語るほど、自分に起きたことが陳腐に思えるのもよく知っている。記憶は語るほど嘘になっていくこともあるのだ。すでに用意されている悲しい物語に自分が回収されるのはもううんざりだ。
 
 ただ、問題なのは私の記憶は誰にも共有されていないこと。つまり家族の誰も、私の身に起きたことなんて覚えちゃいないのだ。

 母が鬼になるとき、祖父母は働きに出ていた。肝心の母は狂気のなかにいたので、鬼になったときに何をしていたかは覚えていない(らしい)。
 さらに、私が家を出てから母は退行が進んで冷静な話ができなくなった。祖父は死んだ。祖母はそんなことはなかったと言う。母が鬼になったときの記憶は本当に完全に私だけのものになってしまった。あまりの不確かに、私は夢でも見ていたのかなぁと自分を疑う。
 でも、あのとき実家で私がよく隠れていた机の下、天板のうらには私がシャープペンシルの折れた短い芯で書いた「どうして」という落書きが残っているし、いよいよ母が止まらないときにペットのうさぎと一緒に閉じこもった実家のトイレのドアは、私の記憶のとおりに母の拳と大体同じサイズで凹んでいる。
 だから本当にあったんだと思う。思うのだけど、語ることに疲弊して口をかたく閉ざし、普通の真似をして生きている私は、自分がだれなのかわからなくなるときがある。あったのか無かったのかあやふやなものでできている自分。今、私が確かだと思っているものもひょっとしたら幻なのかもしれない。そして自分が死んだとき、私は消えるどころか無かったものになるんじゃないかって。

 でも、文字は残る。過去があやふやなら、過去を語るのではなく、今の私がのたうち回っている跡を残せばいいのではと思って批評を書いている。

 あといつか、あの家を壊すときが来たら、例の机とトイレのドアは燃やそうと思う。あったかもわからない私の過去の葬式として。その固有の輪郭を保ったまま葬れるのは、唯一覚えているひとである私だけなので。

(20240418、角野桃花)


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