tpa-zu (トパーズ)

38歳、会社員▶️周りに笑顔😊と感謝🙏関わってくれた事に『ありがとう』 起きてる事実を受…

tpa-zu (トパーズ)

38歳、会社員▶️周りに笑顔😊と感謝🙏関わってくれた事に『ありがとう』 起きてる事実を受け入れ、過去ではなく未来を視る▶️日々学び、実践、変化する事を楽しむ‼️▶️2024.2.4陶芸教室に通い始めました。

最近の記事

私という個体、存在は。

読んでいる本を通じて、私のアウトプット。 ーーーーーーーーーー 私という個体、存在は、 誰かしらの影響を受け、形創られていく。 良いも悪いも、沢山の要素・因果を受けて創られていく。 変えられぬ事実に、 その時の自分に対しての折り合いをつけ 過ぎ去った時間の流れの中で、 ふと、気づいてしまう。 あの時の折り合いの意味合いが贈与へと改編される時。 “だったことになる“ それは起きた直後のという「今」の時に 「今の私」にとっては“傷の物語“ であったものが、

    • 土と心。 vol.3

      2024.3.31 前回の投稿から、 1ヶ月半経過しております。 その間、陶芸教室には 毎週の様に通い続けておりました。 カリキュラムも順調に進み続け、 今日で16のカリキュラムのうち、11の工程まで進む事ができた。 挑んだ形は、 湯呑み、飯茶碗、香合、扁壺、板作り。 学んだ技法、装飾は、 指掻き、削り出し高台、刷毛目、付け高台、合わせ、墨流し。 香合を作成している時だったかな。 さて、 あなたは写真の香合が何だと思いますか。 指導してくれる先生、二人から「う

      • たゆたう心

        今日の私という存在は何処へ行くのだろう。 昨日までの私は、もう存在しない。 何故なら、 今日出会った人たち、関わった人たちによって 私の見る世界が変わってしまったから。 明日の私は、 何に、 期待し、怯え、憧れ、恐れ、感動し、悲しむのだろうか。 一人だけの世界とはどのような感じなのだろうか。 他者のとの関わりがあるからこそ、 何かしらの反応が起き感情が生まれる。 人との繋がりから起きる事柄は、 良い意味でも、悪い意味でも カオス(混沌)である。 後にも先にも判

        • 土と心。 vol.2

          2024.2.11と2.17 陶芸教室に通い始め、 自由に作品を作れる様になるまで 16のカリキュラムを受けることになっている。 陶芸の基本を身に付ける為のカリキュラム。 円柱と角柱。 底となる土台は土をしっかりと叩き空気を出し、 予め決めた厚さに均等になる様に棒で伸ばしいく。 土の粒子が、いち方向だけに偏らないように、 伸ばしていく方向を変えながら伸ばしていくのが大事。 最初の土作り、土台作りを適当にやってしまうと イメージしている完成形との乖離が初手から起きて

        私という個体、存在は。

          土と心 #1

          2024.2.4 陶芸を始めようと思って、 陶芸教室の一日無料体験に行ってみた。 はなから通うつもりでいったのだけど、やっぱり行って良かった。 全くのド素人で、何をどうしたらいいのなんて無知きまわれだし笑。 何かを創り出すってことを体験したかった。 指導者の先生の話を聞くだけで、学びだらけで収集心の強い私にとっては至福の時である。 また、今回、電動ロクロでモノを作るという体験が初めてだった。 そして、 今日の体験でわかったことがある。 私はゴール設定を行うことが苦手

          徒然なるままに

          今日も無力感、虚無感に囚われながら生きている。 いつから、そんな感覚に蝕われる様になったのだろう。 やりたいこと。やってみたいこと。 挑戦したいことを挙げてはいるのに実行に移せていない自分。 弱いなぁって、自己肯定感を下げてるいる様なんだけど、 何か違う。 言い訳を綴っているだけ?かもしれない笑。 そもそも縛られる感覚が嫌いなのか。 行き当たりばったりが好きなのか。 在るがままを受け止めるが 自分の核と成すコンパスでありまして、 側から見れば鵜呑みする人間の様

          徒然なるままに

          言葉に出会うということは、

          今日も私のnoteにお付き合い頂き感謝します。 ありがとうございます🙏💖 先日、仕事の出張先で出会った言葉。 直接、言われた言葉ではないのだけど、 凄く自分に刺さった言葉だった。 今、任されている職場(現場)で抱えている問題。 自分自身の戒めでもあり、人との関わりが常の世界の中で、意識し続けないと大切な事だと私は思っている。 この様に、心を動かされる言葉を知るという体験は人生を豊かにする獲れ高としては最幸なものである。※個人の感想です笑 ヴィトゲンシュタインとい

          言葉に出会うということは、

          内省のループの中で

            ここ最近、悶々とした思いと向き合っていた。 内省をしているのだけど、 まぁ答えがでないわけで。 答えが出ないはおかしいか。 出てる。 自分がその答えを『認める』かどうか。 認めてしまえば、この粘ついた思考から解放されるのに。 粘つきは、重たく動きを止め、負のループに陥りやすい。 『認める』は今の自分の意識?常識?OS?を変える行為で、それは 自分で今の自分を殺すということ。 一旦、意識的に死んで生まれ変わろうとすることなのかな。 そう捉えると 躊躇いが

          内省のループの中で

          どう捉えるか

          ショッピングモールの駐車場で物損事故をした。 よく見れば、回避できたことであるのだけど、 思考的視野狭窄が起きると人は確認せず突っ込んでしまうのだろう。 やらかしてしまった時、マジかぁって思ったけど、 起こす関連性のある要因、人や物に対しては責める気持ち(他責の念)は生まれなかった。 素直に自分がやったことだから観念している感じだった。 それでも気分は駄々下がり。 ただそれ以上にやらないといけない事が気分以上に勝っていた。 モールの関係者や警察とのやりとり、保険会社

          独りの時間が好き。

          誰かと、グループ、コミニティに属して、 自分の存在を確認したい、私という自我がなんなのかを知りたいというエゴを持ちあわせている我儘な私。 なのに独りの時間が好き。 最近、サイクルリングにハマっていて、自転車を漕いている時、夢中になれる。 夢中になれると言っておきながら、 やっていることは、 自転車を漕いている。 イヤホンつけて、好きなコテンラジオを聞いて歴史を学ぶ。 目に映ろう景色に一喜一憂してる。 止まるポイントでモンハンNOWで狩りを楽しんでる。 ん? 意識、

          独りの時間が好き。

          里帰り

          今年のお盆は仕事の都合で帰れなかったけど、 この連休を利用して、父と兄に会いに墓参り。 長門市の仙崎でみる海の風景が一番好き。 いつも墓参りに行く時は、晴れてくれる。 めちゃ暑いくらい笑 まぁ父と兄に歓迎されていると解釈しよう笑 もう儀式みたいな感じだな。 でも、この儀式が自分を見つめ直すには大事なんだな。 誰かが答えを出してくれるわけではないのだけど。 ちゃんと自分で踏ん切りを決める為の特別な時間。 ルーティン化している仙崎に行ったら、必ず寄るラーメン屋さん。 オ

          私の言の葉

          この思考をするのは何度目だろう。 自己肯定感の憂い沈みなのか。 はてさて。 思考の堂々巡りを繰り返し、矛盾を孕んだ私の本心は何処へ行こうとしているのだろう。 思考のBGMとして、 「忘れじの言の葉」が脳内リピートしている。 https://youtu.be/lFNWUL9fqG8 私は繋がりを持たさせて頂いている仲間の生きる歩みの言葉を目に、声を耳にした時に、憧れを抱き、歩む力を育ませてもらっている。 私は一体何を歩もうとしている。 貰ってばかりと感じ、空虚な人と

          内から湧き出る感動。

          大阪に遊びに行った時のこと。 目の前に映る街並み。 パッとその情景を見たときに、心が揺さぶられた。 私の中で、感動している。 字の如く、感情が動いている。 側から見れば ただの街並みに過ぎなず、日常では過ぎ去る一面なのかしれない。 なぜ心が動いているのだろう。 今、この瞬間に自身が感じているモノは何に対してなのだ。 新しい、初めてみる情景。 新鮮味を感じいるからだろうか。 都市という街並みに圧倒されているからだろうか。 真夏を感じさせる暑さと照りつける太陽の明

          内から湧き出る感動。

          ヒトの死から思うこと

          私の思考の備忘録として、 遅番の仕事が終わりTwitterを見ていたら、 タレントの自殺がトレンドに上がっていた。 TLを見ていて、 色んな個人の意見や見解が述べられていた。 色んな角度から感じるものはあるなぁっと感じた 何が正解だとか、正しいはまずない。 曖昧で、複雑なのだ。 経験による視座、捉え方、見え方かな。 私は兄を自殺で失っている。 ただし、それは私が兄に対して「死ね」と言っていること。 ここだけで判断されると少々困るので、成り行きというか背景(文脈)

          ヒトの死から思うこと

          繋がりを噛みしめる

          おはこんにちばんわ。 今日も私のnoteにお付き合い頂き感謝します。 ありがとうございます🙏💖 人の繋がりがもたらす幸福感ってなんだろう。 言語化しようというわけではないが、 今感じていることを自分メモとして残したい。 物質的な距離をバグらせる。 縁、きっかけがなければ知り得なかった関わり。 私の中では奇跡の一つ。 知り得なかった世界を知るということ。 何かの縁といえば簡単に処理できるけれど、それでは関わって頂いた仲間に失礼だ。 上からという目線ではない。 オン

          繋がりを噛みしめる

          後悔=贈与

          生きとし生ける者は 後悔を抱いて生きている。 後悔の精算は、 きっと自身の命の燈が消える時に成されるのだろう。同時に引き継がれる祈りと共に。 引き継がれる祈りは、 新たな後悔を生んでしまうだろう。 でも同時に、 返せぬ贈与であることに気付かされるのだ。 後悔をしないよう、己で選択をして答えを手繰り寄せるのだか世の中は不条理で満ち溢れている。 不条理を受け入れ、後悔を返せぬ贈与と気付き昇華できたなら多分、自身の周りに幸福が存在していたことに気付けるのかもしれない。 今