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叙述トリックは陰キャ

大学生の頃といえばミステリに誰しもがハマるものである。ブックオフで投げ売りされていた「イニシエーションラブ」や「ハサミ男」で叙述トリックを含む読書体験に魅せられ、館シリーズなど新本格ミステリなるムーブメントに触れ、とりあえず一通りどう欺かれるのか理解した後、麻耶雄嵩辺りのややハードコアさを増した作風こそ味であると満足する。そしてメフィスト賞なる登竜門を知ると自分でも何か、と構想を練り始めるがいざプロットを纏め記述を始めると、物語を描くという作業の魔境さを知り、鑑賞側でいることが幸せなことを知る。(殊能将之のTwitterは面白かった。あと昔の講談社ノベルズのプログレ感溢れる表紙と角材のような分厚さ)

大抵の人は大体ここら辺で挫折していき、みんな等しく単位を取り終え、労働者になっていく。自分もそんなパンピー過ぎる存在であるが、いつしかノンフィクションしか読まなくなり、ミステリなる存在に対してアップデートを終了してしまった。既存の作品をフリにしたようなアイディアで溢れかえっているミステリ小説の多さや、ラノベチックというかキャラクターのアニメアニメしい種類のものに違和感を感じ、しかもそこは特に問題視されないという風潮に、ややアレルギー反応を起こす事も多くなったというのもある。これをミステリEDと呼ぶ。

どんなにミステリ的技法が秀逸であっても、結末に至るまで半分キレながら作業ゲー感覚に陥ることが多くなってしまったのだ。というかフィクション自体にあまり魅力を感じなくなってしまった。熱狂は現実にこそあるような気がしてならないそんな時期である。一撃に賭ける刹那性を追い求めるのも進化の袋小路入り感があり、そういった類のジャンルの映画などもいつしかちょっと滑ってるような気分になった。別に世の中にそういうものが存在してもいいし、魅力として価値は十分あるのだが今の自分にはそういうドヤ感がなんか辛い。

大学生時代のTwitterを見返すと「〇〇読了」というフレーズを多用していたのが青すぎて面白い。会社に入りメールの文章で「小生は〜」という一人称をマジで使う人を見た時ぐらい涼しい気分になった。自分の家の本棚はブックオフのサンプリングになっていたし、実家に帰ると夥しい量の中古CDに溢れており懐かしい気分になれるが、そこらへんを不定期に擦りまくるこれからの人生はなんか嫌だなあと漠然と絶望する。己の手によって何かを作り出すしか未来はないのだ。創作こそ原子力ならぬ「明るい未来のエネルギー」である。

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