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めちゃオモロいけど…・脱出記: シベリアからインドまで歩いた男たち

タイトルそのまんま。第二次世界大戦下のポーランド人の主人公がロシアのスパイ容疑で捕まり、シベリア送りになり、収容施設から仲間とともに脱走を図る。兎に角南を目指してサバイバルしてバイカル湖からモンゴル・ゴビ砂漠、チベットの山脈を超え、途中ビッグフット見つけたりしてインドまで辿り着くという脱走ものとしては非常に心躍るノンフィクション。

とりあえず強制収容所抑留されるまでのシベリア鉄道に詰め込まれてるところも非常に生々しく面白い。人間が座れないぐらい詰め込まれ、内側が暖かいので順番通りにぐるぐると外側に周り皆で生存率を上げる南極のペンギンみたいな手法は極地生存の掟なのだなと学びになる。

そして電車を降りてからは下手に鎖で繋がれて雪中行軍する様は想像しただけでも寒さに震えるように記述されている。その中でも、「炊飯車」というパンを焼いたり暖かいコーヒーを支給してくれるロシア軍の車両は名前も相まって凄いありがたくみえてくる。「炊飯車」ってネーミングもカワイイ。

収容施設に着いてからは所謂刑務所ものとしてショーシャンクの空にみたいなある程度緩い勾留生活が始まる。タバコとパンがやっぱり金銭的価値を持つのは北朝鮮のチョコパイみたいであるある全部詰まってるなあとワクワクできる。ここまででも面白いのにまだ脱出していない。

主人公はとりあえずラジオの修理を高官に頼まれてその高官のプライベートルームに行くとまさかの奥様もシベリア同伴で生活しており、ロシア軍人でもシベリア送りになった人間はそれなりにやらかしがあった事が知れる。そりゃシベリア勤務とかみんな嫌だろうさ。

収容施設はぶっちゃけ結構ゆるゆるで脱走計画は容易に成功するが、やはりこのシベリアの大地から何処まで行けば脱出成功となるか途方に暮れる絶望感はユーラシア大陸の恐ろしさだなあと思う。

途中で少女と偶然出会い、パーティに参加するというフィクションめいた展開も含みながらロシア領は脱出し、モンゴル編に突入。現地人の旅人への温かさや交流を経て、遂に地獄のゴビ砂漠編に突入。ここは辛すぎる展開が待ち受けており、久々に本を読んで泣いてしまった。やっぱりベタが1番涙腺にくる。

砂漠超えした辺りからはチベット民族との交流がメインで一宿一飯ののんびりスローライフ旅行記となっていく。ここまでくると脱走というメインテーマが段々と薄れていき、兎に角インドの巡礼箇所である「ラサ」に行くというのが合言葉となる。当時インドはイギリス占領下だったのでやっぱ欧米人はそこまで辿り着かないと本当にゴールとは考えられないんだろなあと。

そして最後のチベット超え。ここで凄いのは「辛過ぎてあんま覚えてないけど頑張って超えた」という凄まじいショートカットで駆け抜けていく!なんたるリアル。そしてここでもあっけなく仲間を失ってしまうが、そのあっけなさは唐突で感傷に浸る隙もない。

遂にインド領に到着したところで現地のイギリス兵に保護され、遂に大脱出成功となるが、こっからの展開もまた秀逸。各自入院措置となるが燃え尽き症候群的な抑うつ状態や精神的な不安定が多発するのである。ここの描写はマジで命削って行動し続けたものにしかわからない症状だと圧倒された。

ラストはみんなのその後が気になるところだが、生存メンバーとは全く再開していないというオチ。著者は講演活動でそこそこな老後を過ごしているようであるが、他のメンバーは消息すら不明。

さらにさらに調べると、英語版ウィキペディア情報であるが、この手記自体が結構盛りまくっているのではとエバース町田で言うところの「チッ…冷めるわコイツ…」な展開が待ち構えている。

2006年、BBCは、ラウィッツ自身が書いた声明を含む旧ソ連の記録に基づく報告書を発表し、ラウィッツが1942年のソ連のポーランド人一般恩赦の一環として釈放され、その後カスピ海を渡ってイランの難民キャンプに運ばれたことを示し、インドへの彼の想定される脱出は決して起こらなかったと結論づけた。[1]

2009年5月、英国に住むポーランドの第二次世界大戦の退役軍人であるヴィトルド・グリンスキは、ラヴィッツの物語は真実であると主張するために名乗り出たが、実際にはラヴィッツではなく、彼に何が起こったのかの説明だった。グリンスキの主張は、さまざまな情報源によって厳しく疑問視されている。[2][3]戦時中のインドの英国諜報員であるルパート・メインの息子は、1942年にカルカッタで、彼の父親がシベリアから脱出したと主張する3人の衰弱した男性にインタビューしたと述べた。息子によると、メインはいつも彼らの物語はロングウォークのそれと同じだと信じていましたが、数十年後に物語を語ると、彼の息子は彼らの名前や詳細を思い出すことができませんでした。その後の研究では、その話の確認証拠を発掘できなかった。[4]

ウィキペディアより

もうひとつ脱走部隊の唯一のアメリカ人「ミスタースミス」の謎に迫る調査ドキュメンタリー本も出ているようだが、こちらは未翻訳のため是非翻訳して欲しい。

正直ここまで来るとオモロかったら何でもええやん!という気分になる。あとがきで本人が語っていたように、自分ら以外にも脱走した人間は沢山居るし政治的立場もあって墓場まで持っていっている方々も多数だそうな。

矛盾する証拠

彼が若い頃に記入した公式文書があり、彼の家族と彼の経歴について多くのことを教えてくれました。しかし、彼らは彼の逮捕や逃亡を確認できなかった。

アムネスティ文書
恩赦文書は、ラウィッツの逃亡の説明に異議を唱える
私たちの次の発見は、第二次世界大戦の記念品の宝庫であるロンドンのポーランド研究所とシコルスキ博物館でした。

私たちはラウィッツの軍事記録を見つけました。それは、彼がロシアのポーランド軍に再入隊したと明確に述べています。私たちは、これがロングウォークの物語にどのように適合するか疑問に思いました。

行方不明のリンクは、アメリカの研究者、リンダ・ウィリスがポーランドとロシアのアーカイブで発見した文書から来ました。1つは、ラウィッツ自身の手で、明らかにポーランド兵士に対する一般的な恩赦の一環として、1942年に収容所からどのように釈放されたかを説明した。これらは、彼の恩赦文書とポーランド陸軍に再入隊するための旅行許可によって裏付けられています。

これらの書類は、誤った身元のケースがない限り、ラウィッツが逃げたと信じることはほとんど不可能です。しかし、名前と場所と生年月日はすべて一致します。

文書はまた、彼が主張したようにでっち上げの容疑で投獄されるのではなく、ラウィッツは実際にソ連の秘密警察であるKGBの前身であるNKVDの将校を殺害したために収容所に送られたことを示しています

BBCより

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