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「向き合う」ということーー古賀及子さんの言葉から

古賀さんの日記が相変わらず好きだ。細胞の毛をくすぐってくれるような、まさかそんなところにまで手は届くのかと、触れられて初めて気がつくような心地よさ。だから好きな気持ちの中には慄くような気持ちも含まれる。震える。

慄くと言えば、年末に参加した古賀さんともう一人の古賀さん(史健さん)のトークイベントが浮かぶ。
古賀さん(及子さん)がある時、息子さんに「もっと観察しろ!」と言ったという話を語気強めにされていた。それは確か(別のものを入れていたのに、だったか)「鍋にたこ焼き入れてる」と息子さんが発言したことを受けて古賀さんが訴えたことだったのだけど、親にそんなふうに叱られたことはなかったなと自分を思い返すし、「そう見えた」本人の言葉をさらに深めろと諭す態度にグッとくる。

先日、町でフードパントリーなどを営まれているNPO団体の喫茶店にお邪魔した。下校時間になると小学生が無料のおやつとドリンク目当てに集まってくる。そこである男の子がグレープジュースが飲みたいと言って、あれが特別なんだとワイワイやってるところに周りの大人が「ワインみたい」と発した瞬間、「そう!ワインみたいな感じ!」とその子は我が意を得たりと飛び跳ねた。大きめの氷が入ったグラスに注がれたグレープジュースの色がまさにワインみたいにまろやかで、彼の言う「特別」が見ていてもわかる気がした。だから目の前で、感情に言葉がハマる様を見せてもらってこちらも瞬時に眩さを感じたのだけど、同時に、「え、ワイン飲んだことあるん!」というツッコミも入れていた。

私もワインは苦手でほとんど飲まないけど、「まろやか」って書いている。ワインを飲んだ時に、自分の感覚を正確に表すことよりも、世が言う「まろやか」を自分の体内に見つけ出さなくてはという気持ちの方が圧倒的に大きかったのかもしれない。あるいは、自分の感覚と社会で語られるものを結びつけなくてはという急ぎ方が、私にワインを「苦手」と言わしめているのかもしれない。

そのツッコミを入れたとき、「しまった」と思ったのが正直なところ。大人の一人に笑顔のままではあったけれどもこちらをパッと振り返り見られたのも事実。その真意はわからないけれども、「子ども」の「豊か」な「表現」の「芽」を、摘みとるような真似をしてしまったかなと思った。あの時のあの子にとっての「ワイン」は少なからず内的世界からぐっと手を伸ばしたところに新たな陣地を作るような飛び石になっただろうと思う。言葉が見つかるということがそのまま肉体的な喜びであることだと分かるような場面だった。私は、その喜びを無かったことにしてしまう力を彼に向けてしまったのではないかと感じた。

ここで古賀さんの「もっと観察しろ」を思い出すと、その観察は、やがて本人の力そのものになるのだと感じる。さらに加えて思い出すのは心理学者の故・河合隼雄さんが児童文学からの考察で仰っていたこと。ある子どもが夜中に牧場に入り込んで朝まで羊の群れの中で過ごして帰ってきたとき、それを「ライオンと一緒だった」と表現した。それを大人は「頭のおかしい子だ」と言うけども、大人だってライオンが実際にどんなふうなのかは知らなくて、子が羊にわーっと群れられたときの荒々しさを「ライオン」と表現したものの方こそが正確だったんだと書いておられて、そのことはよくわかるなと思った。事実であるかどうかよりも感覚に合ったニュアンスであるかどうかが優先されることは多いにある。むしろあっていい。だからこそ、私の「ワイン飲んだことあるの」は彼のニュアンスに水を差す、白けたことを言ったなと思った。

だから、古賀さんの「もっと観察しろ!」には慄く。子どもにだって容赦しない目があると思った。私の内にある、“「豊か」な「表現」の「芽」を「摘み取って」しまう恐れ”を軽く超えていく。子どもの表現に己を交差させる強さが古賀さんにはあって、その「己」というのは、現実を見つめる眼差しのこと。ふわっと浮かんでしまう恐れさえをも「観察しろ」と言われているのだと気づく。
「ライオン」としか言いようがない興奮はわかるけれども、羊の群れのどこがどうライオン的だったのか、はたまた別の、もっともっと対象ににじり寄った言語化までの道程に他者の寄る辺が生まれるのだし、自分というものの世界が膨らむのだと古賀さんに教えられている。

ここまで書くと、あのグレープジュースの男の子が別の子どもだったらと想像して、そうしたらまた別の言い方になっただろうなと思った。年齢がもっと小さければ、その「ワイン」には見事! としか言いようがなかったかもしれない。あの言葉は、あの男の子だったから発せられたものだと思えた。会話を続けたかったのかもしれない。仲良くなりたかったのかもしれない。

そんなふうに自分を揺さぶり掘り下げることができるのは、言葉が私そのものだからなのだなと思う。古賀及子さんの言葉に、いつも刺激されている。
「向き合う」とは、己の見ている世界を掘り下げる勇気のいることなのだと初めて感じた。積み上げていきたいと思った。

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