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"The LEPLI" ARCHIVES-86/ 『”ARCHIVES”という旧くて,新しい価値が新たに独り歩きし始める。』

文責/平川武治:
初稿/2012年11月30日:
写真/展覧会”1997”-ガリエラ:

 帰国して2週間程が経った。
底冷えがひどい鎌倉の潜み家はそれでも僕を安らげ,
自心を自然に委ねさせてくれる。
即ち,僕を”日本人”へ蘇らせてくれる。

  巴里でコレクションを見ても今では、
その後の印象が殆ど、早々に風化してしまう様になってしまった。
自然の成り行きであろう。
僕にとっての巴里を軸にしたモードの世界そのものが
周りが騒ぐ程に特別なものでなくなったからであろう。
既に,僕の時間の体積の中で”日常”されてしまったからだ。

 近所のビッショーモン公園の樹木を見るのと
変わらないリアリティである。
従って,余程の強烈な”特異性”又は,”特意性”有るものしか残らなくなる。
只の、“特殊性”に委ねられた”下こゝろいっぱいコレクション”は
もう、僕のこゝろを魅了しなくなった。

 たくさん見過ぎて来たのか,時代性なのか?
又は,僕のモードの眼差しが時代に合わなくなったのか?
それとも,僕が年老いたのか?という発想も有るが,
僕の持ち得たこの様な特異な”日常生活”の不連続の連続性が
僕の自心、そのものになり始めたからであろう。

 否,結局は,現在の巴里のモードの世界は
既に、“モードの金鍍金”状態になってしまったようだ。
僕のリアリティ、巴里30年程の実体験によって、
モードの世界の”根幹”が読め,理解してしまったからだろう、
若しくは,モードの世界の”表層”のフェイクに
惑わされなくなったという事。
或いは、“純金”と”金鍍金”の判別がつけられる迄の,
[知識+スキル+技術+経験+関係性]をそれなりのバランス-レベルで
やっと,自分の世界観と価値観が持つ事が出来得た結果でもあろうか?

 N.Y.VOGUEの名物編集長のアナ ウインターが発していた言葉がある。
 ”THE FASHION IS NOT ART, FASHION IS EVEN CULTURE,
FASHION IS ADVERTISING.
THE ADVERTISING IS MONEY.
THE ADVERTISING BUSINESS WILL BE MAKING
A LOT OF HIGH AMOUNT OF GUARANTY.” 

 そして、僕のモードの根幹の一つの言葉に、
”THE FASHION IS ALWAYS IN FAKE." がある。

 若しかすれば,評論家と称する人種は
この”THE FASHION IS NOT ART, FASHION IS EVEN CULTURE, ”を
熟知した上で、自分の教養を誇示する武器とするのか?
或るいは,知らずして論じるのか?
 その大半が現在ではブロガーレベルが
所謂、“盲目の人たちと象”の諺の世界である。

 この仕組まれ,与えられたバニティーな広告の世界
即ち,”金鍍金の世界”に漂いたい,
”甘い水”をタダで飲まされて
酔わされているだけの輩たち
或いは,”客寄せパンダ”でしかない。
 このレベルは全て,”THE ADVERTISING IS MONEY.”の為の
策略又は、“飼いならし”でしかない。
当然、この世界では、”ALWAYS IN FAKE.”が煌めく世界。

 この様な時代性になると,このモードの世界も、
”ARCHIVES"と言うまでの“モードの歴史”が読み込める人間が
ある種の新たな価値を手に出来る。
 今後のモードの世界をコントロール出来得る価値を知り,理解出来,
新たなる時代へ一石を投じられる,評論が可能になる人間であろう。
 また,作り手の側に立つ人間たちにもこの新たな価値は
彼らたちの今後のビジネスへの大いなる道先杖になる。

 大半の日本人デザイナーたちの、
ファッションへの関わりのイントロダクションは極めて,単純だ。
“自分が求める”自由な世界”として、
カッコいい,素敵!あんな世界に入りたい。
あんな人たちと知り合いになりたい、それなりの女の子にモテたい、
そして、可能ならば有名人になりたい。
レベルが導入部であり、
それからの進化が所詮、彼らたちレベルの”夢”
或いは,自己満足若しくは,持ち得たコンプレックスの充足化でしかない。
 それらは所謂,戦後焼け跡から派生した
“庶民のスタンダード”から生まれた”夢”の世界が
その道への発端の”根幹”であろう。
 それなりのモードの世界に出入り可能なる選ばれた階級社会の
男や女たちの”エレガンス”というリアリティにはやはり、距離がある。

 という事はやはり,その國のリアリティとしての表層が
ファッションそのものであり、
戦後日本では、”STREET"と芸能界
それらを煽ぎまくるメディアの空騒ぎに乗せられ,影響させられて
その門を潜ってみたい結果のデザイナー誕生シナリオが大半であろう。
見えている偽りの派手さ,
メディアが情報と称し、大声で叫んでいるカッコいいもの
それらは実は虚飾な”金鍍金な世界”でしかなかった。
という”浦島太郎モード版”が現実。

 もう一方、現実の”保守/コンサヴァティ”という時代性に於いては、
しかも、不安定な政治力や最悪の経済情況が長く続く消費社会では、
“ベーッシック/定番”や”スタンダード”という
物事の基本、基盤が大きく意味を持つ。
モードやファッションの世界でも同じである。
 それぞれの根幹を教養とし、その理解度と経験度が必然的に
重要、必須になる世界でもある。

 しかし,この世界には無知,無縁でもそれらをパクる事で
その世界を知ったそぶりが可能であるという迄の
彼らたちの変わらぬ厚顔な現実性のみで構成されているのが
“東京ファッションゴッコ”。
彼らたちは所詮、”絵に描いた餅"を手本&イメージに
“むやみにデザイナーぶる事に煩わされている”輩たち。
“THE FASHION IS ALWAYS IN FAKE."

 現代という時代性では、
このモードに於ける服という“ベーッシック/定番”
若しくは、”スタンダード”という
造形的、機能的な”根幹”の知識と教養が必要であり,
また,それぞれの時代性とその時代のリアリティであるスタンダードとの
対比、関係性の理解度と経験度が
新たなファッションスキルであり,必然必須になる。
 これによって作り手と称されるメゾンが継続して来た
自分たちの歴史的アーカイブが価値を持ち,
その利用又は活用手法と時代性のコーディネートが大いなる武器となる。
 繰り返し言うが、
この新たな価値に対する眼差しは作り手だけではなく,
評論を行う当事者たちにも、大いなる説得力ある武器である。  

  この新しいモードの眼差しを
今後の、新たなビジネスのための”パラダイム”に構築し始めた巴里である。
 彼らが"ARCHIVES"と呼ぶ”在庫処理ビジネス”が始まった。
この新たなビジネスの価値観は、
「文化は武器」と言うユダヤ民族たちの価値根幹の利用である。
「価値を持った在庫品」そして、「来歴ある在庫品」を選別し、
新たな別の”BOX"に納め、「見せられる在庫品」とするビジネスである。
 21世紀に入って、それぞれのメゾンが競って、
”Foundation”設立を始める。
 これが彼らたちの新たなファッション文化ビジネスの
”パラダイムとそのファウンデーション”である。
 確か、90年代の終わりにロッテルダムに設立された
”プラダ ファウンデーション”がその先駆けであった。

 この” Foundationビジネス”/財団設立が実質、
「ファッションとアートの世界」の”差異”を
うまくビジネスに取り込む強かな機能となった。
 この根幹は、
「モードの世界における”新しさとスピード”」の変質と変貌でしかない。
モードの世界のビジネス価値は
この”新しさとスピード”のために構造化された「トレンド」だった。
が、この基幹価値が変貌し始めたこと、スローになり始めた。
この時代性を読み込んで構築された
やはり、新しい”ファッションパラダイム”が
” Foundationビジネス”である。

 このような時代性が継続すれば、
この” Foundationビジネス”がブランドメゾンの
”ブランド エクイティ"創生機能に発展もしてゆく。

 ここに前述の、アナ ウインターの言葉を
”THE FASHION IS NOT ART, FASHION IS EVEN CULTURE,
FASHION IS ADVERTISING.
を超える新たなファッションの世界が広がり始める。
 しかし、この世界へは”誰でもが入れる世界”ではない。
こでは、従来からの”白人優位主義者”たちの変わらぬ”眼差し”
すなわち、新たな”利権ビジネス”でしかないのも事実である。
 
文責/平川武治。
初稿/2012年11月30日。
追稿/2023年5月。




 


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