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C-KDI-11/桑沢全体講義レジュメ 「僕が昨年1年間の”パンデミック”で感じ、考えていたことの幾つか。」

 文責/平川武治:
初稿/2021年5月吉日記:
写真/THE SKY OF TARIFA AT STRAIL OF GIBRALTAR

 1)不自由さによって、新たな自由さを感じ始めた1年。/
 昨年という時間の流れは僕のこれまでの人生で、
一度も海外へ出かけることが強制的に不可能になり、
自身の”自由の裁量”ではどうにもならなかった1年でした。
 このような経験は思い返ってみると35年振り。
そして、今という時代にこのようなかたちで
”自由を奪い取られる”現実を体験した事自体の
不可思議さと不条理を改めて考えさせられました。

 その結果、僕の生活のルーチンもズレ始め、
時間の速度が緩やかなスローな流れになったことがその後の、
僕の”New Normal”の全ての根幹になりました。
そして1年間、いつも同じ環境と場所で生活することでより、
家の周辺の自然となじみ所謂、日本の四季の美しさや豊かさと穏やかさを
草木や野鳥達から感じ楽しむゆとりに、
”新たな自由さ”を感じることが出来た1年でもありました。

 ということは、時間の流れがスローになると自ずと”眼差し”が変化し
その結果、”こゝろの有り様”にまで”新たな自由さ”が
染み込んでくるということを教えられた1年でもあったのです。
 これは僕の普段の生活のリアリティには新聞やTVという諸情報源や
繋がり過ぎるケイタイやSNSも全く無いが故の”静けさ”という恩恵であり、
自然とともに生かされている自分の再認識の年でもありました。

 2)「近代」と共に誕生し始めた”デザインムーブメント”を再考する。/
 ここで、大まかにデザインの歴史を思い巡らせると、
ヨオロッパで「近代」という時代が19世紀も終わりに始まり、
イギリスで”産業革命”が興り、”機械技術”が誕生し
「モノの量産」が可能になり、新たな社会と生活者が誕生。
これに対峙するように、W.モリスの”アーツ&クラフト”運動も始まる。
フランスでは芸術の世界に寄り添うように、”アール・ヌーヴォー”が生まれその後、”アールデコ”へと。
ロシアでは”ロシア•アヴァンギャルド”が1910年に始まり、
1916年にはスイスのチューリッヒで”ダダ”が誕生し、
3年後にはパリにも”ダダイズム”が汚染、拡大以後、N .Y.迄もへ。
ドイツでは1919年に”バウハウス”が創設され
ここで「近代デザイン」が”カリキュラム化”されのちに、
”ウルム造形大学”へ発展。
オランダでは”De stijl”や”Amsterdam school”など多様な
デザインのムーブメントが興る。

 近代ヨオロッパでは当時の哲学や思想を取り組みながら
このように多くの視点と解釈、理解によって、
”アートムーブメント”とともに「近代デザイン」の概念が生まれ、
”デザインムーブメント”が多彩に発展してゆきました。

 欧州での1929年の”世界恐慌”により、
1930年以降は、世界経済の主軸が「生活の豊かさ」を象徴する
アメリカ合衆国へ移行し、”T-フォード”を基本とした
本格的な”オートメーション”システムのための
”工業デザイン”が考えられるようになる。
例えば、”流線型ムーブメント”が生まれ、
その後の、”デザインムーブメント”もアメリカが主導権を握る
「大量生産」に委ねた、”オートメーション”構造のための
”デザインムーブメント”へ進化、発展してきたのが
この「近代デザイン」の流れでしょう。

 3)現代日本における「社会」と「モノ」との関係性とは?/
 僕は戦後と言う時代にその根幹を置いて考えてしまうと
やはり、戦後の日本社会の”進化と発展”と
その根幹であるべき日常生活の”豊かさ”とは
全て、「消費社会」と言う構造の中で孵化され、
機能されてきた社会構造を考えてしまいます。
 そして、その後の「高度成長」や「バブル」によって発展した
”飽食消費”の虚しさ或いは、”買う”という行為以外に
自己確認や確信できる方法が見つけられない故の、
”消費主義社会”の空虚さを体験しているので、
ここでも戦勝国、アメリカ合衆国の「消費大国主義」を目指して、
”追随し学び、追い越し”目線の努力によって、
戦後の60年間ほどで僕たちの国はアジア諸国はもちろん、
白人諸国にも勝る珍しい”消費先進国”に成長を遂げたのが
現在の日本社会の現実でしょう。

 そんな国民にとっての「モノ」とは、
ただ消費するモノ或いは、消費させるモノでしかないないのだろうか?
この「消費社会」の元でのこれら「モノ」の”機能”とは
「消費される」ことなのでしょう。
 すなわち、”使う為の「モノ」ではなく、「消費」するための「モノ」”
と言う日本人目線によって、「モノ」に対峙する
”姿勢や視点と距離感”が、その立ち居場所が、
”脆さや定まらない感覚”そのものであり、
この感覚や発想が「モノ」を認識する”根幹”にあり
その上で、「モノ」をどのように「創造するか、デザインするか?」
なのだろうと考えてしまいます。

 そして、このような「消費主義社会」においての
「モノ」の機能の第一義は、「売れるモノ」なのです。
だから、「売れるモノ作り」がデザインされ、
その要素が先行してしまっても世間やメディアはかえって、持ち上げる。
その結果、現代の多くの「モノ」のデザインは端的に言えば、
無理矢理デザインをしているか
或いは、過剰と感じるモノが多く、
「目立つデザイン」、「変わったデザイン」から
「特異性から特殊性まで」に
そのデザイン•プライオリティが置かれてしまっていると
改めて考えてしまうのです。

 ゆえに、僕は僕の35年間ほどの白人社会と彼ら達との
関わりと経験スキルによって、
白人たちが「モノ」と対峙する姿勢やその距離感と、
現代日本人の「モノ」との接し方とそれぞれの立ち居場所に
相違があると感じてしまうのです。
 
 例えば、ある時代の家庭で、”知的シンボル”となったものとは?
僕の中学生時代には「ブリタニカ百科事典」の全13巻や
月刊「リーダース ダイジェスト」でしたね。
それらは読むのではなく「消費」すること即ち、
”買って置いておく”事で、”生活が豊かに思われる”
あるいは、”知的に見られる”が根幹にあったようでした。
 現代の日本における「モノ」と
”日常生活”と言うリアリティある関係性も
ここに根幹があるではないでしょうか?
 ここでは「見た、知っている、持ちたい、買いたい、買った。」と言う
現実の欲求が消費行動のベクトルであり、
ここには「使いたい」と言うベクトルはさほど重要視されていないのでは
無いだろうか?
 これが僕達日本人が求めた、現代日本の”消費社会構造”の
ある種の「豊かさ」であり、「モノ」との対峙距離ではないでしょうか?

 ここで今、面白い現象として、
若い世代が「倍速でドラマを見る」ことがブームらしい。
僕はこのブームの根幹もやはり、”消費社会構造”特有の
「見た、知っている」感覚の”今版情報処理”であり、
”リアルな生活の営み”において、
彼らたちは「達成感喪失症」なのでは無いだろうかと余計な心配を。

 4)では、日本における「デザイン風土」としての、
「大衆消費社会文化」とは?/

 「モノ」を通じて、「モノ」が持っている”文化と消費文化”の違いと
その「差異」が読み取れるでしょう。
 そして、”消費文化人たち”の立ち居振る舞いのスマートさとは、
「思想を持たない軽さ」でどのようにサーフするか?であり、
日本の「消費文化社会」の中では
この「レベルと身軽さとほどの良さ」があれば”文化人”であり、
彼らたちの”情報”にメディアが動き結果、”消費”が伴うというのが
「大衆消費社会文化」の構造です。

 この世界での”情報”とは、”消費へ誘い込むもの”が情報なのです。
従って、ここには「文化」本来が持つべき
「正義」を根幹にした、「人間愛」
或いは、ある種の”リスク”又は”責任感”が全くない世界でしかありません。
 「文化」を産まなくて、「消費」を煽り、生み出すことのための
「情報」を垂れ流せば
戦後日本の「消費主義社会」のモチベーションが生まれ
それそのものがミッションだった時代が、80年代でしたね。

 この「大衆消費主義社会」も60年以上の歴史を持つと
それなりのヴォリュームが生まれます。
このボリュームはまた、メディア化されて”進化”してゆきました。
結果、「消費文化国家」という戦後の
”新しき社会”が誕生し、それを築き上げてきたのが
あの、”学生運動”にも無関心を装った、
”ポリシーなき、ポリシーには関わりたくない”、
デモにも参加しない所謂、”ノンポリ”と言われる
”団塊の世代”の連中でした。

 彼ら達はその後、当時の新しい”横文字ビジネス”へ
即ち、「アメリカの消費社会」そのものに羨望とコンプレックスを持ち、「広告業界」や「ファッション業界」「メディア業界」へ雪崩れ込み、
彼らの「なりすまし業界」を構築し、
「社用族」になって成功を収めたようです。
 これが僕流に言ってしまっている「日本版ヤッピー」の誕生であり、
日本における「デザイン風土」の母体になり、
70年代後半から80年代の10年間程で彼らたちは
日本の「大衆消費主義社会」構造を構築し
”消費”を”文化の領域”まで持ち上げた輩たちとその”風土”でした。

 5)ここでデザインにおける「程の良さ」という考えを再考する。/
 これは”Right Design”、丁度ほど良いという意味でのRight
という考え方ですね。
ここで僕は、Braun社のデザインを1955年から1995年まで
手がけたDieter Ramsを思い出しました。
 彼はミース ファンデル ローエの”Less is more”を発展させ、
”Less but better”というコンセプトで
このブラウン社のオリジナルなプロダクトデザインを手掛けました。
そして、彼は「Good Designにおける10の法則」を
ブラウン社のデザインチームのメンバーたちとともに一緒に作りあげます。(下記を参照。)
 その後、”ジョナサン アイヴ”が率いていた、
アップルがその流れを組み、現代のデザインをテクノロジーと結びつけ
現代の「近代デザイン」に至っています。

 僕の言う”Right Design”という世界観は、
”丁度ほど良いデザイン”は「モノ」を使うことで
そして、その「モノ」と一緒に生活を営むことで感じ、共感できる
”悦び”や”時間”を与えてくれるまでの”デザイン”と言う世界です。
 そこで彼、”Dieter Rams”の”Less but better”ですが、
彼がこの説を提言したこの当時の時代性においては
やはり、彼の時代とその先を読み込む眼差しに、
”優しさの鋭さ”と言うべき、”先見の明”が深くあり、
或いは、”深読み”能力が彼流に進化していたのでしょう。

 ここでも僕流には「近代」という時代性を感じます。
「近代」の真っ只中で、その”恩恵”とその”夢”に邁進していれば、
それなりの立い居場所で生きて行ける時代において既に、
彼は「近代」の根幹である「二項対立」に”限界”
あるいは、欠陥を感じ始めていた非常に、数少ない”創造者”であったと
信じているのが僕の視点です。

 なぜならば、”MORE" or "LESS”と言う”
バウハウス”以降の「バランスの近代化」
或は、「二項対立」発想で”作り手”が使用者の世界を捉えて、
「モノ」の創造やデザインを考えるとそこには”限界”が生じる。
 
 故に、この「使用者」の目線あるいは、中間的目線発想が
彼、”Dieter Rams”の”Less but better”には存在したのでしょうか?
 ここには、”作り手優先”の目線から
使い手の、使い勝手や確信さをある種の”達成感”とした、
作り手の持つべき新たな”目線”として考え込んだ結果が、
”Less but better”ではないでしょうか?

 僕は、現代の「共生時代」を考えるには、
モノを「使う事」で共有、共感できるリアルな「しあわせ感」を
生み出すことが、”GOOD DESIGN”であると言う
彼の”新しさ”を考える時代性だと読みました。

 ここには、やはり「思想」が必然ですね。
決して、「いいね、知ってる!」の世界では無い
深さと厳しさが、「美しさ」を生み出すというまでの世界観です。
 余談ですが、彼の世界観は僕の私的体験から、
もう一つ、ここには「民藝」の世界観と同類の”思想”を感じたのです。
 かつての、イギリスの”アーツ&クラフト”の誕生にも
この”思想”がありましたね。
 僕が丹波の窯元で、住み込みで修行させていただいた
”陶芸”修行期の師匠の言葉をここで思い出すのも
同じ根幹を感じてしまうからです。
 師匠は、河井寛次郎さんの愛弟子、
鳥取の民芸運動のパトロン、吉田璋也の協力を得て、
丹波の山奥で作陶をなさっていらした人でした。
僕はその彼の元で結核になるまでの3年間修業しました。

 6)やはり、「二項対立」的発想のデザインには今後無理がある。/
 「近代デザイン」が根幹としてきた,
”Less is more”と”Less is bore ”あるいは、”多様性と対立性”など、
この西洋的「二項対立」発想やデザイン手法には
今後、無理があり、敢えて、”風土”に育まれた”複眼的眼差し”を考えます。
 ここでは、使い手が共有可能な”しあわせ感”が
心地よくデザインなされていない。
むしろ、生きる苦しみやストレスのために
デザインが無理やりなされているのではないか?
と言う視点も考えてしまうのです。

 従って、”Less but better”と彼の「眼差しの正しさと、新しさ」が
眩くなるのではないでしょうか?
それは彼のデザイン思想の根幹の一つである、
「プロダクトはもうデザインうんぬんではない。
人がモノをどう捉えるかだ。」
あるいは、「ここでは作り手がどのような”日常生活者”でありえるか?」
と言う根幹があるからです。
「人がモノをどう捉えるかだ」は、
「生活者がモノをどのように捉えるかだ」ですね。

 残念ながら、日本のデザイナー達彼ら多くに、
この「日常生活者」という”目線”と”営み”が”存在”するまでの
「リアルな生活者」であるのでしょうか?
そして、彼らたちの「日常の”生き様”とは?」

 個人の”自己満足や自己拡張”のためのデザイン思想(?)が
もしあるとすれば、
この考え方自体が「近代」の終焉と共に, " The End !! "

 7)終わりに/
 現代と言う時代は
僕にとっては、「近代」の終焉を迎え始めていたところへ、
「COVID-19」によって、
完全にシャットダウンしてしまった。
 全てが、地球も、自然も、民主主義も、しあわせも、
「脆さと危なさとまやかし」のみしか、
感じられなくなり始めた”今”という転換期。

 明日を嗅ぎつけられる若人たちは
この期を「人新世」と呼び始めたようですね。
このような時代性における、
「日常生活者」にとっての”しあわせとは?”
”ゆたかさとは?”そして、”余裕ある営みとは?”
そんな実社会における「モノ」とは?
「モノ」が持っている”価値”とは?
その上での「欲望」とは?

 「世界はモノで出来ていない」。
これからは「モノの世界」は
”確実にそして、静かにゆっくりと退化”する時代性でしょう。
 もう一度、このような現実になってしまった時代の
「日常生活」とは?
「モノ」とは?
そして、「程の良さ」とはバランス感ですね。
味にも、立居振る舞いにも、空間環境にも、優しさにも、
「愛あるバランス!」
これらが存在して
初めて、日常の営みに「エレガンス」が生まれるのですがね。 

 そして、コロナ禍以後、「新しい普通」と言う
新たなパラダイムにおいて根幹となるキーワードとして、
 日本の「民藝」と言う”思想あるものつくり”の世界観と、
Dieter Rams」というバランスをデザインする”近代の良心”は
「モノと人間」との関わりの関係性ゆえに、
「新しい普通」には欠かせない普遍的な”キーワード”でしょう。
 そしてここに、「地球と自然」を加えるのが
”Z世代”たちの「新たな倫理観」でしょう。
 補稿/2023年8月。

 ◯付録/「Good Designにおける10の法則」/By Dieter Rams:
 ラムスは1970年代に、持続可能な開発という考え方や、デザインにおいて陳腐化は犯罪であるという考え方を導入した。 それに伴い、彼は自らに問いかけた。"私のデザインはグッドデザインか?”
彼が出した答えが、彼の有名な10原則の基礎となった。
彼によれば、「良いデザイン」とは次のようなものである。
 参考/https://ja.wikipedia.org/wiki/ディーター・ラムス

1)革新的であること/ - 進歩の可能性は、決して尽きたものではない。
技術の発展は、常に独創的なデザインのための新しい機会を提供する。
しかし、想像力に富んだデザインは、常に技術の向上とともに発展していくものであり、それ自体が目的になることはありません。
2)製品を便利にする/ - 製品は使われるために購入されます。
製品は使われるために購入されるものであり、機能的な基準だけでなく、
心理的、美的な基準も満たさなければならない。
優れたデザインは、製品の有用性を強調する一方で、
それを損なう可能性のあるものを無視します。
3)美的であること/ - 製品は毎日使用され、人々やその幸福に影響を
与えるため、製品の美的品質はその有用性に不可欠です。
よくできたものだけが美しいのです。
4)製品を理解しやすくする/ - 製品の構造を明確にします。
さらに言えば、ユーザーの直感を利用して、製品の機能を明確に表現する
ことができます。よく言えば、わかりやすいということです。
5)目的を持った製品は道具のようなものです。/装飾品でも芸術品でも
ありません。そのため、デザインはニュートラルであると同時に、
ユーザーの自己表現の余地を残すように抑制されていなければなりません。
6)正直であること /- 製品を実際よりも革新的、強力、または価値が
あるように見せかけることはありません。
また、守れない約束をして消費者を操ろうとしません。
7)長持ちします/ - ファッショナブルであることを避けているため、
時代遅れになることはありません。流行のデザインとは異なり、使い捨ての社会であっても何年も使えるものです。
8)細部に至るまで徹底している/ - 恣意的であったり、運任せであってはならない。デザインプロセスにおける配慮と正確さは、消費者への敬意を
示すものです。
9)環境にやさしい/ - デザインは環境保護に大きく貢献します。
デザインは、製品のライフサイクルを通じて、資源を節約し、物理的および視覚的な汚染を最小限に抑えます。
10)最小限です-少ないほど多くなります/- 可能な限りシンプルであるが、それ以上ではない。良いデザインは、製品の本質的な機能を高めます。

文責//平川武治。
初稿/令和参年5月吉日。
補稿/2023年8月。


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