媒介する身体 はじめに-その1「あわいの力」と「頭空っぽ性airhead-ness」
ー媒介する身体ー
NOTEのタイトルを変えた。『媒介する身体』というタイトルにした。
Puffy の『これが私の生きる道』の歌詞をいきなり紹介したのにあれだが、全然、私はいい感じではない。いい感じではないけれど、最悪は脱した気もするので、こうして文章を書くことができている。「これからも よろしくね」と、眠りにつく前、自分に明日が来ることを受け入れることができている。
おととし、鬱で仕事を辞め、去年は一年働けず。今年も、それが続行している。今年は諦めて、治療の年にすると決めた。ようやく良さげな標準治療の病院にも巡り会えた。そこでは双極性障害と診断された。
はじめての発症は20代前半。一番悪化しているのが、今、という医者の見立て。それはおよそ自分の感覚と一致する。というか、45分の問診によって、そう診断されたのだから、そら、そうか。(でも、これをしてくれる病院とは全然出会えなかったから、それで感動すら覚えてしまった。)
治療といっても、病院で処方される薬を飲んで、あとの時間は自分でどうにか治療にむかうような、あるいは、状況が悪化しないような時間を過ごさなければいけない。
そして、「媒介する身体」という概念は、それに必要な概念だったり、実践法だったりする。
この実験を始めてから3ヶ月が経ち、今の所、いい感じに進んでいる。ただこの短い時間は『これが私の生きる道』とまで言い切れるほどのものでもない。リリースから30年近く経つこの曲のように、気がついたら、自分の身体や言葉の一部になっていた。そういうことになればいいなと思っている。
同じ曲の中で、Puffyはそうも歌っているので、まぁ気楽に書いていく。
「媒介する身体」について、簡単に説明をして、はじめに、その1を終わらせていく。
媒介は安田登の『あわいの力』から、その概念を借りた。
・媒介=あわい=異界と現世界をつなぐ存在=「あっちの世界」と人間を結ぶ
今、私は、心と体と記憶と思考がチグハグになっている。つまり、壊れている。壊れた状態では「媒介」はうまくいかない。異界と現世界をつなぐことができない(少なくとも私には)。
「媒介する身体」として、自分自身の身体を再構築をしていく。それが、治療のプロセスであり、出来上がって行く身体自体が「薬」のような存在ともなる。今でも、部分的・瞬間的には素直に「媒介する身体」になることに入ることもできるが、集中力も持たないし、すぐに疲れてしまう。
「これは、時間がかかるぞ」ということを感じている。だからこそ、Puffyの曲のように、気づいたら30年経っていた。くらいの感じで目指した方がいいと思っている。
異界から入ってくるさまざまな事柄、自然や言葉など。それらが、脳内や身体の中をサラサラと流れ続け、思考することなく、現世界に表すようなことをしていく。その記録がここに残っていく。
媒介(媒介=あわい=異界と現世界をつなぐ存在=「あっちの世界」と人間を結ぶ)するために必要になってくるのが、千葉雅也が言う、「頭空っぽ性airhead-ness」で、「媒介する身体」の「身体」の部分の概念を指す。
「頭空っぽ性airhead-ness」は『意味のない無意味』。という本で紹介されている。
現在の自分の状況、鬱にも躁にも、判断・意思決定を任せられない状態が数年間続いていて(そして、標準治療の病院でさえ、行く病院ごとに診断が変わり、信頼できなくなりそうな状況でもあり)、いよいよ、どん詰まりのもっと奥のどん詰まりに突き進みそうな、人生のお手上げ状態となっている状況において。
「頭空っぽ性airhead-ness=身体で行為する」はとてつもなく効力を発揮する哲学だと感じている。
それは、鬱にも躁にも影響され得ない、オルタナティブ=第三の道を探す、ということだ。
『両手にトカレフ』という小説の中におじいさんのこんなセリフがる。
両親のアディクト、生活保護、貧困、現代のイギリス社会の中で、両親に振り回され、子どもだけでは解決できない問題に悩む14歳の主人公ミアに、やさしく語りかけたおじいさんのセリフ。
オルタナティブは、医療においては代替療法のことも指すことがある。
今の私には、鬱でも躁でもない、第三の選択基準、別の世界、薬による治療に加えて、時間の過ごし方という代替療法、つまり、それらをひっくるめたオルタナティブが必要になっている。
「「しかたがない」と諦めず、別の世界《オルタナティブ》はあると信じられれば、それは可能になるんだ。すべての本ではないが、幾つかの本はその助けになる。」
おじいさんがそう言った、幾つかの本が『あわいの力』であり『意味のない無意味』であり、それらから導かれたことが「媒介する身体」という実践である。
『意味のない無意味』は、後にまた触れていきたい。今は、それが自分に必要なことだと言うことで留めておく。とってもとっっっても良い本だった。
媒介する身体として、具体的に行為し、記録する対象も決めた。
本・料理・記憶。この3つを使って身体で行為していく。あるいは、本・料理・記憶に内在されている身体を浮かび上がらせる。
ちなみに、身体には、このような大きな意味も含まれると千葉雅也は書いている。
本におけるbody(概念・哲学・文体など), 料理におけるbody(レシピ・ただできあがったものなど), 記憶におけるbody(瞬間的映像など)、がそれぞれの形や概念で存在する。
そして、本やレシピ、読んでいると「強度の高い」bodyを持ったそれに出会うことがある。躁鬱の振り幅に振り回されまくっている自分自身の弱っているbodyを、強度の高いbodyに合わせ、支えてもらう。
思考を除外し、媒介する身体に徹する。それを繰り返すことにより、本やレシピのbodyが自分のbodyと一体化していく瞬間が訪れる。そうして、少しづつ身体を回復させていきたい。という希望。
例えば、はじめはレシピを文字通り全て追わないと作れなかった料理が、やがて、踊るような軽やかさで、身体が行為するだけで、完成させられるようになる、という風に。
読んでいた本の概念が、あたかも自分の言葉のように言い換えられて使うことができるようになるように。
そんなことができたら。
それが、媒介する身体の目指すこと。その記録がここに更新されていく。
本・料理・記憶。この3つの中に、自分に合う組み合わせを見つけていきたい。ただ、こういう後付けのような理由は無数に生まれてしまうが、それを続けることは、媒介する身体からは遠のいていくことになる。これから、実践の中で、いろいろ学んでいこうと思う。
鮨職人なのに、アレルギーで魚が触れなくなり、早4年。それまでは躁状態であっても、それが魚に向いてくれていたおかげで、どうにか保てていた。しかし、今は躁の集中対象が暴れまくって、神奈川から、新潟に行き、沖縄に行き、東京に戻り。その都度、鬱はその決断を拒み否定してきて、動きまくった。この4年でヘトヘトになってしまった。そんな状況に、私はいる気がする。
(鮨を辞めた時の記録がこれです。)
魚の代わりに、あんこと、焼き芋をお寿司に見立てて。簡単なフードパックで、友人へ。ふと、渡そうと思った。
子どもには半分サイズで握るのも、身体が「すべて」覚えている。数年ぶりにしては、よく動いてくれた、私の身体、すごい。
ラップの下には、落ちていた桜の花びらを丁寧に洗い、敷き詰めた。
道に敷き詰められる、季節の終わりの散りゆいた桜の花びらのように。私も散ってしまいたい気分にもなるが、まだ散りそうにないので、カウンターパンチのような何かを、覚えてゆかなくてはならない。
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