見出し画像

裏社長室(第12回配信)を見て、考えたこと、感じたこと。

金色の髪に羽織袴。大きく肩をさらけ出した花魁風の着付け。公道ではおよそ存在を許されぬであろう、改造の限りを尽くした自動車。バイク。

テレビが、とある自治体の成人式の様子を報じている。1月の第2月曜。今年も、そんな時期がやってきた。

私の時代は、成人式は1月15日に行われていた。この日は小正月と呼ばれ、かつては元服の儀が行われていたという。

「先生は、成人式に出たのかな?」

凛が、みかんを食べながら言った。
凛のみかんの皮の剥き方は独特だった。まず、みかんを真っ二つに割る。そして再度、それぞれを二つに割ける。都合、四等分にして、果実をつまむ。
私が知る中で、そんなみかんの食べ方をする者はひとりもいなかった。

あまりにも、凛に似つかわしくない挙動だった。だからこそ、初めてその様子を見たとき、凛に「普通は、おしりに指を入れないか。」と尋ねずにはいられなかった。

凛には、先生は昼間っからいやらしいね、と笑われた。

「先生?」
返事をせず、考え事をする私に、凛は再度問いを投げかける。

「ああ、ごめん。成人式か。出たよ。」

「嘘っ!」

凛はみかんを口に運ぶ指を止め、目を丸くする。

「聞いておいて、それはないだろう。もちろん、行きたくはなかったけれど。」

さすがに心外であった。暗に、友達もいないのに?と笑われた気がした。

「どんなだった?スーツ?袴?それより先生の想い人は、かわいくなってた?」

凛は、悪びれることもない。好奇心を隠すこともしない。年相応の少女の顔だった。

「バカな。……『変わってないね』って言ったかな。」

「あー。先生。それはダメだよ。女の子はきれいになっていくんだから。怒られたでしょう?」

凛の小さな口に、またひとつ、みかんの果実が吸い寄せられる。

「…言われてみれば、苦々しい表情をしていたよ。そういうものなのか。」

「えーっ…中学とか高校とかぶりだったりするわけでしょ。なんかあるでしょ、普通。」

皮だけになったみかんを片付ける凛は、呆れている様子だった。

変わってない、という言葉に、ポジティブな、逆にネガティブな意味はなかった。思ったことが、そのままだ。

彼女は彼女で、変わっていたのかもしれない。変わったことを認めてもらいたかったのかもしれない。
しかし、私にはその変化が伝わらなかった。

それでも、わずか20年程度の人生の中で、2年なり5年なりの月日が、確かに経過していたのだ。
そう考えれば、変わっていない方がおかしい。
私が鈍いと言われれば、そのとおりかもしれない。

「まあ、いいんだけどね。そういえば初詣、まだだったよね。私、来宮神社行きたい。熱海の。」

「いいよ。変わらないな、凛は。」

「ちょっと!確かに熱海は好きだけど!そういうとこ。そういうとこね。」

新しいみかんを手に取りかけたところで、凛はぷりぷりと怒り出した。

思わず苦笑いをした。私は、変わったようで、変わっていなかったのか。

変化を願い、求め、足掻き、気がつけば、あらゆるものが変わっていた。
そして、凛と一緒になった。

今はもう、何も変わらなくていい。みかんのおしりに指を入れながら、そんなことを思った。

           *

隔週水曜20時配信、緒乃ワサビさんの「裏社長室」(第12回)の感想等です。

今日のトークテーマは「成人になったと実感した瞬間」。

いま、板垣巴留さんの「SANDA」を読んでいます。少子高齢化が突きつまり、子供の価値が上がりきった世界のお話です。主人公は、サンタクロースの末裔の三田(さんだ)くん。

関西が長かった私には、三田は「さんだ」です。ラーメンが好きだったり、慶應義塾が身近な人には「みた」の方が通りは良いでしょう。

どうでもよいことこの上なさすぎる。

まあ、詳細な感想であったり考察であったりはいつも通り措くとして、この作品では、三田というひとりの人間のなかの「子供」と「大人」とが、丁寧に、そしてエモーショナルに描かれています。

このSANDAを読んでいても、「無力である子供の自分を超克すること」が成人、つまり大人になることなんだろうと思います。

子供と大人という、一見シームレスな流れの中で、あえて区切りを設けるとすれば、きっとそこでしょう。

ただ、私自身振り返ってみると、子供の頃に経済的な不自由を感じるほどの物欲はなかったし、力ずくで叩きのめしてやりたいと思うほど憎らしい人もいなかったし、大事な誰かを守りきれず不甲斐なさを感じる、といったような場面もありませんでした。

その後も、子供がいないことを含め、なんとなく様々な通過儀礼をパスしないまま、明確なターニングポイントもないまま、大人として認識される年齢になりました。
そんな背景もあり、私は成人の実感を語るには相応しくない人間だな、と感じています。

それはそうと、今の子たちは、どうなのでしょうね。どこに行っても年寄りだらけだし、急に成人だぞ大人だぞと言われても、その大人としての裁量なり覚悟なりを発揮する場面もなかなか訪れなさそうで、困惑するんじゃないかな、と思ったりしています。

余計なお世話ですが。

          *

緒乃さんの、小説の話。

前回、第11回の配信で、「(小説を)書くことは誰にでもできるヨ」(1:05:25くらい)といったお話がありました。

「装甲悪鬼村正」という作品で、銀星号(ヒカル)が「戦うことはできる、結果はしらん。ただ、戦う意思さえあれば、誰にでもできる!」といった発言をしていたのを思い出しました。

アマチュアでお笑いをやり続けている友人は、ネタが書けないということはない、キャラを作って会話をさせ続けたら、それっぽいことは延々と書き続けられる、と言っています。

そして小説というものには定義はないから、私が書いた一次創作も、私が小説だといえば小説なのでしょう。
だから、書けんことはない…のかな。

ただ、それが売れるか、面白いかはともかくです。

MMA選手の青木真也さんは、「プロの格闘家であること」について、「格闘技一本(ファイトマネー)で食べていけるかどうかがプロとそれ以外の分水嶺」といったことをおっしゃっていました。

私自身、ファイトマネーを貰って試合をしたことがありますが、自分自身をプロの格闘家だと思ったことはありません。手足があって空手をやれて、その延長線上の場に立てることと、空手や格闘技でご飯を食べていくことは明確に違います。当たり前ですが。

つまり、「小説家」であること、言うなれば活字だけで生きていけるかどうかと、小説が書けるかどうかは、当然に違う次元で考えなければならないことです。

むろんその点、緒乃さんなら大丈夫でしょう。

(昔のことは承知しないものの)昔からの夢を、今まさに叶えようとしている人がいる。
そんな人の動向を、毎日コラムで知ることができる。

小説家前夜。
いやぁ、もうそれだけで、エンターテイメントとして成立しています。

小説デビュー、楽しみですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?