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【白昼夢の青写真 case1 二次創作 第5話】

あの人の、42回目の誕生日が終わる。
今年はついに、一緒に屋根の下で過ごすことすらなかった。おめでとう、ありがとう、と、顔を合わすこともなく、端末の上だけで事務的なやりとりだけをこなし、日付が変わるか変わらないかのタイミングで「今日は会社に泊まる。」とLINEを送った。
もちろん、私は会社になんかいない。担当作家の家に上がり込んで、そのまま、流れに身を任せた。

          *

「最高だったよ。YOUの美しいBODYは、YOUのHUSBANDの所有物なのに、MEがタダで好き放題しちゃって、HUSBANDには悪いことをしちゃったねぇ。そこは、謝っておいてよ。」

得意な顔をして、セクハラ以外の何物でもない言葉で嬲る。まさしく全身全部を慰みものにされた。手で指で触れられていない、舌を這われていない場所は、身体のどこにもない。そういえば、行為のさなかに玩具を使われたのは初めてだった。和色と呼ばれるもので表現をするならば、柳緑といったところか。ああいうものは、肌色かピンクが相場だと思っていた。

私を抱いたスペンサーは、担当作家のうちのひとりで、人が大事にしているものを穢すのが好きだ、尊厳破壊モノはたまらない、と言って憚らぬ、なかなかの下衆だ。ただ、そんな下衆さも、表現者としてはプラスに働くこともある。事実、作品の売り上げは好調だ。

「じゃあスペンサー先生、私、今から松風先生のところに行ってきます。書き下ろしの件は、次の打ち合わせまでにお願いしますね。」

スペンサーはすでに私には興味がない様子で、スマホを触っている。確か、各曜日ごとの遊び相手がいると聞いている。しかも、複数。そして、美しいのであれば、性別を問わないとも。

これから誰かを呼ぶつもりのようだ。あれだけのことをして、まだ足りないのか。呆れるようでいて、若さと、そしてそのオスとしての逞しさには、感心すらする。

服装を整え、スペンサーの家を出る。ひとまわり近く年下の男に抱かれた。結婚してからは初めて、夫以外の男性と関係を持った。私は私の意思で、超えてはいけない一線を超えた。しかも、あの人の誕生日に。

ついに、明確に不倫といえる不倫をした。どこからが不倫というレベルの話ではない。紛うことなき不貞行為だ。真っ黒の不倫だ。

発覚すれば、あの人が知れば。形だけでも、ハリボテであっても、砂のお城であっても、紛いなりにも2人でこつこつと積み重ねてきた日々が終わるのだ。それだけのことを、ついにしてしまった。

あの人と家族になって、20年ほどの時間が経過した。最初の数年は幸せだった。あの人の作品が売れなくっても、賞レースとは無縁であっても、私は全然構わなかった。あの人が私のために小説を書いてくれることが、嬉しかった。

でも、書いて書いて、ひたすら書いて、彼なりに小説家としての実力をいくらかは身につけたことで、逆に波多野くんの亡霊に取り憑かれるかのようになっていった。物語を生み出す痛みを、思うような作品を描けぬ苦しみを、頑なに一人で背負うようになった。このままではいつか、あの人は波多野くんに連れて行かれてしまう、と、本気で心配になった。

私は私で、編集者としてのキャリアを重ねるうちに、あの人の作家としての器というものを、限界というものを、おそらくそれほどの誤差はないレベルで理解してしまった。あの人に商業作家としてやっていけるだけの才は、ないということを。

だから私は「あなたにはもう書けない。」と、波多野くんよりも先に、夫に死刑を宣告した。あの人にも思うところがあったのか、今ならやりきった、と心から納得できる、もう小説は書かない、と言った。すぐに高校の非常勤講師の仕事を見つけてきたときは、正直驚いた。よほど苦しかったのだろう。

とはいえ、長らく生活の中心に組み込まれていたものを、そうそう容易くなかったことにはできないものだ。小説の世界に後ろ髪をひかれる様子が、時々ではあるが見受けられた。どこか未練があるような言動が窺えれば、私は容赦なく斬り捨てた。

それから−あの人は生きながら死んでいるような状態になっていった。小説があっても、小説がなくても、あの人は不幸になるしかなかった。

会話はほとんどなくなり、食事をともにすることもまた、ほとんどない。最後に2人で一緒に出掛けたのは、いつだったか。ただの同居人でも、もう少しまっとうな関係性を持っていやしないか。
日々繰り返すこの日常が、あまりにも無意味なものに感じる。何のために、夫婦であることを続けているのだろう。関係の終焉は、もはや時間の問題だ。あの人もあの人で、きっと同じことを考えていると思うけれど。

もう、いいよね。いつでも自由になれる事実を作ったことで、少しだけ気分が楽になったと思う。やったことは最低なことなのだけれど。

           *

祥子のいない家で、朝を迎えた。コーヒーを淹れ、換気扇の下でたばこを吸う。
「抱かれたのだろうな。」と思った。その勘は、きっと当たっている。普段から女性らしい格好をしてはいるが、あんなにも「女」を強調した服で仕事に行くことはなかった。根拠というには弱いが、絶対と言っていいほどの自信がある。
仕事に行って、帰って来て、顔を合わせて。
そのとき私は祥子の不貞を糾し、怒るべきなのだろうか。

怒るべきなのだろうか、と考えている時点で、私は怒っていない。そこに気付いたとき、どうしようもなく悲しくなった。
妻の裏切りか、またはどこかの男の火遊びか、いずれにせよ本来、男ならば耐え難いほどの侮辱に対し、怒りすらわかぬほど、自分自身を諦めてしまったことが。オスとしての弱さに、否応なく向き合わさせられたことが。

どうしてこんなにみっともなくて、卑屈なのか。人から、世界から必要とされぬ人間は、ここまで弱くなるのか。どうしてこんな人間にしかなれなかったのか。どうしたら、こんな人間になってしまうのか。人としての価値は、死刑囚にも劣るのではないか。世界中でもっとも醜悪無比な存在なのではないか。

わからない。いつから何をしていればよかったのか。小説に出会わなければよかったのか。嘘でも友達を何人か作っていればよかったのか。早生田大学に入らなければよかったのか。山田ゼミに入らなければよかったのか。波多野秋房と相対しなければよかったのか。祥子と結婚しなければよかったのか。小説が売れていればよかったのか。

誰か助けてくれ。本当に、誰か助けてくれ。お願いだ。果てしなく憐れで限りなく恥ずかしい自分が惨めすぎて、気が狂ってしまう。

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