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その問いは誰に?「それでも母親になるべきですか」を読み終えたよ。

それでも母親になるべきですか/ペギー・オドネル・へフィントン(鹿田昌美/訳)』/分類367オ

図書館で借りた一冊の本、タイトルの問いは誰に向けてなのか?
なんといえばいいのか、読めるが読みやすくはなかった。


なぞの溝

はじまりから、なんだかこじらせ感が漂っていた。
母親である女性と子供のいない女性との間に溝ができている、という違和感。

私たちには子どもがいる女性を指す言葉があり、それは「母」である。ところが、子供のいない女性を指す優れた言葉はなく、「子どものいない女性」と呼ぶほかない。

「それでも母親になるべきですか」11頁より

歴史上の女性のありようを紹介しながら著者も葛藤しているようだ。
地球への負担を人口抑制で軽減させようとしたり、人口不足になればそれを憂いて子どもを産め産めと強要する社会が嫌だと。

溝という言葉で人の内面や生殖能力を区別するのは、なんでだろう?
区別なんかされたら繊細な心が傷ついてしまう。
それにしても「母親」って言葉、もやもやする。

産まなくなった?

なぜアメリカ人女性は子どもを産まなくなったのか?

「それでも母親になるべきですか」243頁より

「母親になる、母親にならない」
それは選択できることかもしれない。

「母親になれなかった」
希望したのに叶わなかった。そういう人の深い悲しみを想像する。

「なぜ子どもを産まなくなったのか」
そこに至る歴史がある。子どもを産まなかった女性たちの話が細切れに本につづられている。何世紀も前の出来事だとしても現代に通じているようだ。

「母親をする」という行動

「母親」名詞ではなく動詞として用いるのが最適であり、母親は、状態ではなく行動を示す言葉なのだ。

「それでも母親になるべきですか」21頁より

マザリング〔母親のように子どもをケアし、育児すること〕が広がり、それをやれる人が増えること。「母親をする」というコミュニティを構築するのは容易ではないけれど、それが必要という。現代は核家族化がすすみ、格差社会になり、近所づきあいなどのコミュニティは希薄。子育て中の親は孤独になりがち。

日本だって昔は地域が大家族みたいなものだった。近所の世話好きな大人たちは他人の子どもも受け入れケアをしていた。今もどこかの地域でそういうところもあるようだけど。

自分の子どもがいるいない関係なく、心や家族の関りが開かれ、ゆるやかな親族のような関係が地域でつくれたら暮らしやすい。だからマザリングは素敵と思う。

それも私

人と関わるのがおっくう、苦手だったらどうしたらいいだろう。
私の葛藤。こじれている私。それも私。
ちなみに私は子どもを産んで母親をした。
ゆるやかな関係が私のまわりにはあった。
だから選択できたのだと思う。

すべての人が子どもがいるいないに関わらず子育てしていく。
キラキラしたエネルギーに満ちた子どもたちと関われる社会。
それがいいかもと、この本を読み終えて思ったよ。
間接的だっていいんじゃない。

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