叶えたい夢
本日もお読みいただきありがとうございます。
今日は気になるテーマが転がっていたので乗っかって書いてみようと思います。この企画を立ち上げた?さわかみ投信の担当者の方によると(恥ずかしながらさわかみ投信とか知らなかった)
さて、30も過ぎた年齢だけはいい大人になってしまった私の今の夢って何なのだろうか?
こどものころの夢って何だったのか?今ではもう忘れ去って久しいですがこれを機に少し考えてみて今の自分や将来の自分に繋げて考えてみようと思います。
私は三兄弟の三男でして何をするにも常に先達がいて自分で何かを自発的にしようとはする環境になかったですし、しようともしていませんでした。そういえば唯一野球をやりたいという自己主張はありましたがあっけなく潰えましたね。
私は5歳からサッカーを始めましたがそれも兄の影響でした。私は途中から野球をやりたがり誕生日プレゼントにバットとグローブも買ってもらいましたが上2人がサッカーをやっている都合上親の送り迎えも大変だから、とサッカーをやり続けることになりました。
習い事も基本的にやる気はなく水泳、ピアノ、絵画など、どれも夢や目標に繋がるほどの熱量をもって取り組んではいなかったように思います。何故なら兄がやってる習い事の親の送り迎えに着いていってたら同じようにやるようになっていただけですし・・・小学校の近所にあったそろばん教室だけは自分に合っていたので珠算暗算何級だか忘れましたが6年生までやり切ってそれなりに優秀だった記憶があります。
かといってすべてが無駄だったわけではなく、サッカーも水泳もピアノもそろばんもその経験は活きていると思います。親に感謝ですね。絵画だけは完全に無駄だったと思いますが。
小学生の時の夢はそんな感じにインプット過多のわりにベクトルが将来へ向いていなかったので習い事は一切絡まず、当時の担任の先生がカッコよかったから「学校の先生」になりたいと思っていました。
中学生になり進路希望が絡んでくる際も漠然とした「学校の先生」になりたいという気持ちは抱き続けていたので教育学部のある大学への進学を前提とした高校選びになりました。
そんなこんなで選択肢を広げる、ただこれだけを理由に偏差値だけを基準にして進路先を決定してなんとか当時地元で1番の進学校に入学することになりました。ビジョンや目標が無くても人間頑張れるというか進学塾のプロってすげえんだなっていま思い返すと感じます。
高校に進学してもなんとなく進路は「学校の先生」だったので、教育学部のある大学にしようってことで学芸大を第一志望にしていました。
高校2年にもなると進路を意識した授業選択になるのですが、学芸大はかなりレベルが高いと感じたので断念。他にやりようなんかいくらでもあるんですが調べようともしなかったし視野が狭くてプライドが高かったですね。理系科目が苦手だったことも併せて進路を私立文系コースに変えました。
夢・・・というか仮初の目標がなくなってただでさえ中途半端な人間が宙ぶらりんになってしまいまずは進路を決めるための手ごろな目標を探しました。
すると私の叔父が税理士をしているのですが、子どもが娘二人で後継者がいないことを嘆いている。という情報が入ってきました。私文志望の自分にとっても渡りに船だと思い「将来は税理士になるために商学部に進学する」という大義名分をもとに第一志望早慶となりました。
もともと学年の下から数えた方がいい人間だったので受験勉強はあまり実を結ばず、希望する進路からだいぶランクを落とした大学へ現役で行くことになりました。いま思うと本気で1年浪人してもう少し上を狙っても良かったと思うのですが、当時の自分は早く勉強や受験から解放されたかったのでしょうがないですね。
税理士/会計士を目指してO原にダブルスクールで通い資格取得の勉強をしていましたが日商と工業の2級を取得したところで挫折。1級にもなると法律とかも絡んできて、他人の夢や願望に乗っかってそのまま仕事にするにはハードルが高すぎましたね。もともと向いている性格ではなかったのでモチベーションもないとさすがに続かない。
大学生ともなると流石に希望進路がなくなると焦ります。だって就職先が全くないわけでありまして・・・親、兄弟、先生、先輩たちの言うままに求められるがままに応えられるだけ応えてきた先にあったのはやりたいことが何もない、とりあえず生きていくことが目的と化した自称空っぽの人間でした。
当時の私にはなかなかの絶望案件でして、夢も無ければ希望もない周囲の期待に応えられないし大学受験以降挫折の連続。俺って実はそんなに優秀じゃないじゃん。じゃあいま何が出来る?何もない。というのは死を選ばせるには十分な材料でした。
死ぬのは怖いしあの1線を越えなくて本当に良かったと心から思いますし越えていってしまう人たちは本当にいらん勇気があるし自分なんかよりもよっぽど深い絶望や諦念に囚われていたのだな、と思います。追い込まれていて死にたい振りをして親やバイト先に迷惑かけましたがお陰様でいま少しだけ広い視点で物事を見れるようになっています。
自殺未遂の後は引きこもりになってしまいましたが知り合いの社長さんから海外留学を勧められワーキングホリデーの制度を利用してオーストラリアへと逃亡しました。この際、留学資金をためるために朝から夕方までは引越業者でアルバイト、夜から明け方までは中継センターで仕分けのバイトをしていました。
目の前の仕事に一生懸命になりながら余計なことを考えずに無我夢中に仕事をするのは当時の自分の精神衛生に対してはかなり良かったと思います。そこまで好きじゃなかったとはいえサッカーを13年やっていたので体力的には少し自信があったし上下関係や体育会系の雰囲気にも馴染みがあったのでバイトの人間関係で困ることは無かったのも大きかったと思います。
オーストラリアに行って3,4ヶ月ほど語学学校に行った後はまた食い扶持を稼ぐため、そして2年目の滞在許可を得るために農業の仕事を探します。
農業といっても収穫作業がメインだったのでここでも肉体労働。労働先は現地の法人が運営している農業法人ですが私のような木っ端アジア人はエージェントに所属するしかなくて、オーストラリアにいるのに給料が日本にいるのと大して変わらないという事態に陥っていました。
その後せっかく英語も喋れるようになったし語学学校でTOEIC800を超えるための勉強もしていたので日本での就職に活かそうと思いJ-SHINEの資格を取得しました。仮初の夢だと思っていた教育への道にもう一度近づくのは不思議な縁があるものだと思いました。
なんやかんやあって結局実家の家業を手伝うことになりまして現在に至ります。英語のスキルやTOEICの点数なんかはゴミになりましたね・・・いや、活かそうと思えばやり方なんか色々あるとは思うのですが本業が忙しいのと海外向けにやるほど会社に体力が無いので選択肢に上がらないってのが正直なところですね。あと私個人にあまりやる気が無い。
そうして実家の会社に入社して、身内だからと会社役員になり今では経営者の1人になってしまいました。
もともと数字や勉強が少し得意だったので全体の方針決めや旗振りは社長に任せ、私は数字の部分や労働環境の改善に注力しています。
今の私の夢は会社を100年企業にさせることです。
夢かなうまであと50年ほどの時間を要します。そして残念なことにその瞬間に私は恐らく生きていません(推定82歳)生きていたとしても私の影響下ではないはずです。
なので私は私が元気でいられるうちは元気でいなければいけないし、私なんかがいなくても生き続け、社会に必要とされ続ける会社の礎を築かなければいけません。
小さな会社ですが社員は40名を超えその家族を含めると100人を超える人たちの生活を背負っています。そうなってくると個人の夢とかもあるけど社員の皆に幸せになってほしいと思うし、そうすると絶対に倒産してはいけないので企業として存続してほしいと願うようになりました。
そのために必要になるのは家業から企業への転換。恐らく家族経営からの脱却を余儀なくされるであろうとは思いますが私は同じ理念を抱いた人間が継いでくれるならそれでよいのではないかと思います。M&Aも一つの手段ではありますが出来るだけ独立独歩の組織であり続けたいと思います。
さて、個人として私の使命は会社を存続させることだと思っているので何か別に叶えたい夢があるわけではないのですが
嫁さんと子どもとが欲しいし庭でバーベキューとかキャンプがしたいしあわよくばサウナとか設置したいし週末はたまにお出かけしてえなあ
夢にたいしてどういうアプローチを取ればいいのかは色々とあると思うのですが今だったら大谷翔平がやってることを真似するのが一番じゃないですかね。夢の実現や目標設定なんかは色々な意見ややり方があるとは思いますが私が思うにまずは口にすることじゃないですかね。そしてそれを家族や友人に宣言することだと思います。
本日はここまで
自分の叶えたい夢についての話はほんのちょっぴりでほとんどが過去の話をしていた気がする。道理で文字数が多くなるわけだと思いました。しかし自分の半生を振り返り何をやったかどんな子供だったか考えて文字にするというのは悪くない営みだと思います。
また今度
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