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軍の街 郡山

 郡山という街の発展について考える場合「安積疏水の開さく」と「安積開拓」という二つの事業が語られることが多いようです。
 この二つの事業については、日本遺産として登録されている「一本の水路」という言葉で検索していただければと思います。
 いろいろな美談が記載されていますが、巨額の国営事業が「ナゼ 郡山で展開されたか」を考えると、筆者は不穏なものを感じます。いつものことになりますが、

エビデンスはありません」「個人の感想です」「講釈師、見てきたように嘘を言い」です。

それを踏まえて、ここから先は、自己の判断と責任でお願いします。

 結論から申し上げれば、
明治政府に対する東北の反乱を抑える軍事拠点として郡山が適していた
というのが、筆者の妄想です。

 奥州列藩同盟は頓挫したものの、会津藩や二本松藩などの幕府軍の残り火を監視する必要がありましたし、他藩も含め幕府軍が反乱に向けて行動した際に初期消火を行うため、先の二藩に加え、白河藩、三春藩などの旧藩の影響が少なく入植者を受け入れることができる土地がある郡山は、明治政府にとって、非常に都合が良かったわけです。
 仙台藩や津南藩などの東北各藩が軍事行動を起こした場合に、塞き止める防波堤の役割を担うことができる適地ということができます。
 ここに、明治政府に近い「武士」を入植させることで、明治政府の天領とも言うべき、地勢が誕生することになるわけです。
 さらに、開成山大神宮として「お伊勢様」を分祀することにより、明治政府に近い精神的な支柱を建てたようにも見えます。

 そして、この軍事拠点としての考え方は、後の「軍都」にその系譜が受け継がれているようにも感じるのです。

 昭和の大戦時に、軍都の指定、そして安価な電気と工業用水を利として、軍需企業が郡山市に立地し、産業基盤を形成したそうです。今でも、それらの軍需企業の一部は、役割を変えながら本市での企業活動を継続しています。
 また、大戦後に海軍の「飛行場跡地」の払い下げを受けて、大学の誘致に成功し、工業団地を造成することで生まれた産業基盤が「郡山中央工業団地」となります。
 さらに、現在においても「陸上自衛隊郡山駐屯地」(大槻町)も存在しています。自衛隊に対して「ネガティブ」な感情をお持ちの方もいらっしゃいますが、地域経済への貢献は少なからぬものがあります。
 また、「郡山中央スマートインターチェンジ」を整備する際には、その目的・効果として「自衛隊の災害対応の際に迅速性が増す」という文脈も使われたようです。

 郡山市の発展の影には、戊辰から始まる戦争・軍の存在があるのではと感じています。

 戦争を肯定するつもりはありませんが、戦争を奇禍とし、地域発展の基礎を造り上げた先人たちの取り組みには、敬意と感謝の気持ちを抱いていまうのです。無かったことにしては行けないという気持ちがあります(かつて「軍用道路」と称された路線名は、「うねめ通り」と改称されてしまいました)。

 このような影の歴史もまた、一つのシビックプライドと言えるのではないかと考えてしまうのです。

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