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MR大好きで、大学発ベンチャーを作るまで(邦友プロムナード寄稿)

高原太郎
東海大学工学部 医工学科 教授
株式会社ドゥイブス・サーチ 代表医師

はじめに

●在学生や浪人生のみなさんへ

 私はビリギャルみたいな人なので、この原稿では、とくに「現時点で」成績の悪いみなさんを励ましたいと思います。ポイントは、A: 熱中と繰り返しが奇跡を生む、B: サービス精神があなたを育てる、C: 忖度と社会的慣性ではなく、自らの考えや洞察力に基づき行動する、ということです。ゼロからいきなり成功することはできないけれど、いまあなたが為していることは、後の成功につながるかもしれない。ぜひ頑張ってください。アンダーライン部分が【A, B, C】のいずれに関連が深いか考えながら読むと面白いかもしれません。

● 既に社会人となっている皆さんへ

 社会生活では様々なことが起こりますので、本稿で述べた苦しみや楽しみをご経験されている方も多くいらっしゃると思います。皆様とその気持を分かち合い、交流をいたしたいと思います。

駒東時代の思い出

 私の駒東時代の成績は惨憺たるもので、240人中の190番ぐらいでした。英語や数学は30点内外であることが多く(図1)、物理はすこし得意で60点ぐらいでした。天文部に属し、天体観測に熱中しました。毎月発行される「天文ガイド」を発売日に入手し、ほぼ徹夜してこれを熟読し、記事の端に書いてある細かいことまで覚えて、部室で「これ知ってるか?」と、部員同士で自慢し合うということをしていました【A, B, C】。天体写真を撮るために、気象の本を繰り返し読み、あるいは写真部に入って増感現像(感度を上げる事ができる)や大判写真を仕上げることに情熱を燃やしていました。

図1 試験成績

 試験は一夜漬けが多く、後に東大にストレートで入ることになったH君(愛甲石田だったので駒東まで遠かった)が、経堂にあった私の実家に前泊しに来てくれて、最後一緒に気合を入れて勉強したりしていました。しかし徹夜は私にとってファッションのようなものでしかなかったですから、成績を見る限り成功したとは言えなかったわけです【A, B, C】。(図2)

図2 繰り返しと成績の関係

 学校ではおどけていることが多く、これはある意味で皆へのサービス精神のつもりでした(A, B, C)。たとえば授業中に詰め襟から(有線の)イヤホンを髪に隠してはめて、当時は人気があった野球の日本シリーズをラジオで聞き、メモ書きした紙を皆に手渡しで回して実況したりしていました(当然ですが当時はウェブはありません)。高3になっても自習時間にふざけていたら、H君に「君はいいねぇ・・」と嘆息されたことがあります。サービスのつもりだったので、さすがにちょっと傷つきましたが、そんなふうにして私は卒業を迎えました。

辛い浪人生活

 当時の駒東は、今より相対的に優秀ではありませんでしたが、それでも、240人中半分ぐらいは(浪人も入れて)早稲田に合格する学校でした。ですから、自分の成績が200番程度で、全国偏差値50以下でも、「早稲田を受けても良いんだ」と自然に感じられました。これはありがたかったです。これは心根ひとつで、行動ができるということを示していると思います【A, B, C】。

  しかし現実は厳しく、河合塾で結構勉強したつもりではありましたが、現役、1浪あわせて受験した8大学すべて不合格で、とうとう2浪が決まりました。1浪したのに、A判定の、偏差値50の大学にすら、なぜか落ちたのです。これにはさすがに自信を喪失し、大学にはもう受からないのではないかと思いました。ちなみに、現役のときの共通一次(当時)は1000点満点で670点(とくに英語はひどくて80点/200点ぐらい)で、あまりに恥ずかしかったので、大台に乗る707点と報告したことを覚えています。1浪したら、721点でした。まぁ50点上がったので、平均的な伸びよりすこし悪い程度でしたが、もともと粉飾したので、浪人してもほとんど上がらない人、という評価になりました。その場の体裁を取り繕うと、結局は後が大変だと身に染みてわかりました【A, B, C】。

彼女に振られる

 そんな私にも春がありました。高3のときの文化祭で最後に天文部の展示に来てくれた可愛い女の子とつきあったのです。当時は携帯はないので、展示を見終わったら、ノートに感想を書いてもらい、興が乗ったら住所も書いてもらえるという文化がありました。その子は書いてくれたので、思い切って手紙を出したら返事をもらえました。超うれしくて、3回ぐらいやりとりをし、無限に(一生)そのままで良いと思っていたのですが、相手から電話番号を書いてきてくれたので、お家の固定電話に電話をかけ、喉がカラカラになりながらお誘いしたらOK!それで何度かデートして、お付き合いに至ったわけです。それが1浪のときです。一体、何をしているんでしょうね。彼女は一学年下(高3)だったので、一緒に図書館などで勉強しましたが、結果は前述の通り自分は不合格。彼女は第2志望に受かり、大学に行きました。

 お互いの生活は、花の大学生と、しがない浪人。すぐに破局が訪れました。男の子って、若い時とくに狭量ですよね。あれこれこだわりがあったりして相手に言っても、それがかえって自信のないみずぼらしい男に見えるので、必然の理とも言えます。今思えば。

考え続ける(哲学)

 2浪のときは、思い切って、「志学塾」という少人数制の塾に行きました(残念ながら現在は潰れてしまいました)。アットホームで、授業中にいつも質問できる感じだったので、成績が上がりそう!と思っていた矢先、先程の破局(自分にとっては破滅)が訪れて、もうしばらくは何もできませんでした。食欲もなく寝ることもできませんでしたが、近くの医師がとてもよく話を聞いてくれて、なんとか死なずに済みました。しかし毎日毎日、彼女のことを考え、最初は怒りや不信に満ち、次に自分に対する後悔と反省の念が浮かび上がりました。これまで築き上げてきた判断の拠り所がなくなってしまった感じで、「なぜ人は、花を見て美しく思うのか」すらわからなくなり、寝ても覚めても、生きる意味を考え続けました【A, B, C】。

 1ヶ月ぐらい経った頃でしょうか。ある日、なにか少しは、わかったように感じました。こんな苦しい思いを続けるのは嫌だという気持ちもありました。そして、突然、勉強しよう、と決心したのです。

成績が上がる→大学にすべて受かる

 はっきりとした変化として、自分をコントロールできるようになっていました。自分の行動のすべてに明確な理由付けがあり、きっかり思ったとおり行動ができます。一日12時間〜14時間を正味の勉強時間に使い、正確に食後15分で、一心不乱に勉強できるようになっていました。授業中も超集中して聞き、自分は理解できたことでも、みんなには少し分かりにくかったと感じたら皆のために質問をしました【A, B, C】。模試を受けるたびに偏差値が5ずつあがっていきました。

 塾長から志望校に関する面談があり、「高原のこの伸びなら東大を受験すべき」と言われました。私立もすべてB判定以上になっていたので、東大受験もいいなと思いましたが、「先生、偏差値50の大学にすら、ひとつも受かっていないのです。さすがにまた落ちるのは嫌です」と言って断りました。私は超理系的人間で、コンピュータとかロボットなどに強い興味がありました。しかし、つらくて寝られなかったときに親身になってくれた医師のことを思い出し、国立だけは医学部を受けてみようかなと思いました。

 受験は大成功して、共通一次も870点ぐらいとなり、秋田大学医学部に合格、早稲田大学などの私立大学の合格も次々といただくことができました。

がっかりする → また勉強する

 念願の一人暮らしは、快哉を叫ぶぐらい快適で興奮あふれるものでしたが、大学の勉強はそうではありませんでした。入学して最初の実習が、顕微鏡を使ってミジンコをスケッチすることだったのです。コンピュータでもロボットでもないんです。もう本当に後悔して、「こんなことをするために勉強したのではない」と思い、目的を失って遊び呆けました。

 しかし、たまたま興味をもった内容だけ激しく勉強した際に、まとめノートをきれいに書いて配布したことをきっかけに、ガラッと変わりました。「僕たちだけの資料だよ」と閉鎖的なことをしていた人がいたので、もっと良いものをみんなに公開してあげたかったのです【A, B, C】。(図3)

図3 大学時代のまとめ

 そのノートが非常に好評だったので、それが勉強の原動力になりました。こうして、4年生〜6年生の間は、試験の2ヶ月前に猛勉強を始め、1ヶ月前に資料をつくって配布、ということを繰り返し、最後には卒業式で謝辞を読ませていただけるほどになりました。皆の感謝が自分を育ててくれたと思います。

小児科医から放射線科医に転職する

 もともと医学を志していなかった哀しさ、どの科に行くのかを考えあぐねたのですが、最終的に慶應義塾大学医学部の小児科に採用していただけました。仕事は大変でしたが、朝から晩まで働くことには充実感を覚えましたし、外来で説明する喜びは何ものにも代えがたいと思えるほどのフロー状態をもたらしました。しかし、「これは真の自分の素養ではない、本当の興味ではない。俺はもっとピュアな理系だ」という、一抹の寂しさのような想いを拭えないでいました。ある意味で悶々としていたかもしれません。そのときに、大学の生協で、分厚いMRI(磁気共鳴画像装置)の本を見つけたのです。まだ日本にはほとんど入っていなかったMRI。その本には、当時のCTでは有り得なかった、鮮烈な脳の縦斬り画像が掲載されていました。「これだ!」と思いました。

 先輩には、「放射線科医は影絵を見ているだけだから、臨床がいいぞ」とは言われました。また当時は、白い巨塔の病院を辞めるなど、絶対に許されないという感じでしたから勇気が要りました。しかし自分の理系志向とMRIはぴったり共鳴すると感じた私は、せっかくの良い就職を棒にして、思い切って放射線科医に転科することになります【A, B, C】。

念願のMRIを触れる日々

 放射線科医になったからといって、3億円もする最新MRI装置は研修医には遠いはずなのですが、たまたま就職した獨協医科大学は人が少なかったこともあり、栃木県ではじめて導入されたMRIを、最初から、技師さんに混じってトレーニングを受けさせていただけました【A, B, C】。その後撮像を果てしなく繰り返し、「医師であり技師である」という状態を数年続けることができました。3億円の機械を自由自在に動かせるのを想像してみてください(図4)。たまたま浪人したことで、MRIの日本導入と自分の転職がシンクロしたことはラッキーでした。

図4 MRI

DWIBS法の発明

 この初期経験が宝となり、その後私は、ずっとMRIで研究発表を続けていくことになります。MRIの撮像ができて診断もできる医師は、まずいません。臨床的な問題(診断できない)を毎日経験し、そこから、「こうやったら撮影できるのではないか」というアイデアを考えついたら即実行できるわけです。これは本当に楽しい仕事でした。そうこうしているうちに、拡散強調画像(DWI)が出現し、急性期脳梗塞の早期診断ができるようになったのですが(日本では1998年頃)、それを改良して、全身のがんスクリーニングをできる方法を考えました。これがドゥイブス法(DWIBS法)です。世界ではじめて、癌の分布を、無被曝のMRIで、造影剤を使わずに可視化できるようになりました(図5)。その後世界初の全身末梢神経描出もできました(MR-neurography)。

図5 PET vs DWIBS

残りの人生

 今私は61歳となり、急に、明確に死を意識するようになりました。同級生も何人か亡くなっています。神様が自分に与えてくれた残りの生、それがとてもかけがえのないことに思えます。これまで、この原稿に書ききれない、いろんな工夫や活動をしてきましたが、最大に成功したのは、やはりMRIに関するものであり、またDWIBS法です。

 そこで、DWIBS法を用いた「無痛MRI乳がん検診」の会社を、大学発ベンチャーとして作り、普及に努めています。実は乳癌診療ガイドライン(2015)では、「拡散強調画像によるスクリーニングは無理」と書かれていたのですが、自分はそうでないと思い(撮影と診断ができる自分は、そうでないと分かるので)、タブーを破ってはじめました。2018年版でそのガイドラインは消滅しましたので、少し社会を変えることができました【A, B, C】。尿一滴、血液一滴でがんがわかるという技術がでてきたので、「もう自分のイメージングの技術は役立たないな、やめようかな」と思っていたら、実はそうではなくて、これら検査を受けた人が、「がんのリスクが高い」と診断されると、このDWIBS法を受けに来るという流れになり、より忙しくなっています。

 私は余生を使って、なんとかこれを数十万人が受けられる規模に成長させたいと切に願っています。

後輩へのメッセージ

 今日説明したいろんな人生のエピソードに似たものを、みなさんがこれからいろんなところで経験されるのではないかと思います。一番大切なのは、「熱中しているときは、たとえそれがくだらないように見えても、ものすごく脳が活性化している」ということです。そのうえに、哲学的なこと(生きている意味とか、なぜ自分はそれを欲しいのか、好きなのかなど)を繰り返し考えると、脳が磨かれて、賢くなり、樹状突起が軸索で繋がり、最終的に奇跡に導かれると思います。サービス精神(人に対する奉仕の気持ち)は、無垢に行うことで、すごく自分を育ててくれることと思います。最後の「忖度や社会的慣性」に抗うことは、とくに日本においては相当難しく見えます。しかし、あなたが自信のあること、あなたが得意なことは、あなたの賢明な洞察力そのものなのですから、それに従って、すっと、パッと移ることが良いと思います。

 過去を振り返ると、30代に為したことが一番発展しました。人生の最後において、このことをさらに深め、皆さんへの御礼としたいと思っています。


朝、500mLの魔法瓶用にコーヒーをたっぷり淹れて出発します。意外と半日以上ホカホカで飲めるんです。いただいたサポートは、美味しいコーヒーでアイデアを温めるのに使わせていただきます。ありがとうございます。