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絵本「えんとつ町のプペル」を茶道的に解釈してみた

お笑い芸人で絵本作家の西野亮廣さんの絵本「えんとつ町のプペル」を題材とした絵本バス「プペルバス」の巡回展示の中、山梨県の名刹(武田信玄公の菩提寺)で「光る恵林寺展」を開催するにあたり、お茶席を設ける機会をいただきました。

「えんとつ町のプペル」って何?って方はこちら

「光る恵林寺展とプペル茶会」はこちらから

そこで、「えんとつ町のプペル」と「茶道」の接点を考えてみました。
「えんとつ町のプペル」は、ハロウィンの夜の物語。
基本的には「茶道」との接点はありません。

無いものを合わせたので、もちろん、ムリがあります笑
ムリがあるのを承知の上で、暖かい目で読み進めて頂けますと泣いて喜びます。

「鎖国性」

えんとつ町は4000mの崖に囲まれ、空は煙でフタをされてます。
ある種の鎖国状態です。
お茶の世界も、茶室という空間にやっぱり鎖国性があります。

お茶の場合、外の世界は戦乱の世でした。

「あおい空、かがやく星」
これはお茶では、何に当たるのか、順を追って考えてみたいと思います。

「ゴミ人間、プペル」

心臓にゴミが絡まり、人間が誕生しました。
これは極めて、茶道的だなーと感じました。

心臓=意志、心、志

何かに心を揺さぶられ、そこに何かをみて、
茶の世界に引き揚げてくることは利休さんも、しばしばやっています。

役割を終えた民具などを茶道具として生かし、心を吹き込みます。

ある意味、プペルの存在は、利休さんの目指した「侘び」にごく近いと思います。

プペルの衣装は和柄
サクラ、夢幻、、、

さまざまなこと思い出す桜かな(芭蕉)


お父さんを思い出すルビッチの心境に近いかもしれません。
茶道でも、桜はやっぱり大切なモチーフ。

熊倉功夫先生がいつか話されていた
「サ クラ」の話。

「サ」は農耕の神
「クラ」は坐に繋がる
冬に山におられたカミが、
漂っていて、真っ直ぐに伸びたものの上に
松やヒバ(檜の葉)があって、
そこにカミが宿る可能性がある、と。
それが依代だ、と。

茶の湯における「花」も、
このあたりを目指さないことには、
話にならないようです、、、
(厳しいし、難しい、、、だからこそ目指す価値がある)

「ハロウィン」

(プペル茶会でパティシエさんに作っていただいたジャックオーランタンのお菓子)

様々な文化が日本にきてますが、日本はそれら全てを日本風にアレンジしてとり込んでしまうという、稀有な風土があります。

日本語の成立なんて、ほんとに顕著。

ハロウィンもまさにそうで、本来の風習とはかけ離れた形で取り込んで日本版ハロウィンが発生しております。(それが良いか悪いかは別の話として、)

あらゆる文化や歴史を飲み込んで
地にあった風土と溶け込ませる力みたいなものが、日本にはあるなーと思います。

(余談ですが、茶道でも阿古陀(アコダ)っていうカボチャ型の道具が昔から愛されてます)

「プペルを洗う」

これは物理的に綺麗にするという意味とともに
清めるっていう行為に近いかも、

隅々まで綺麗に。
塵をなくす、
潔白な境涯は、
茶道とダイレクトにリンクする。

町でただひとりの漁師だったルビッチの父さん
利休さんの生まれた家は魚問屋のお仕事してます。
(全く関係ありませんが、ちょっと面白いです)

「ホシ」

これは茶道的には「和」かなーって思います。
茶の道はよく「和敬清寂」っていわれてて

これを当てはめると、、

敬:思いやりの心
プペルを気遣うルビッチ、父ちゃんを慕うルビッチ

清:清らかなこと
プペルを洗う行為、潔白な心

寂:わびさび
プペルの存在そのものかな?

「侘び」は、麁相ながら、美しいものという雰囲気でしょうか。。

「寂び」は、「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」って感じですかね。侘びを感じる心という雰囲気かなー。。。

「船」

船は「こちら(此岸)」と「あちら(彼岸)」をつなぐもの、
というイメージがあります。
ハロウィンというモチーフとともに、
船にのり、プペルが「父ちゃん」だと気がついたというのは、なんともいえぬ繋がりを感じます。

また、茶道の逸話として有名な、
「にじり口」(茶室に入るための小さな入り口)の話も思い浮かびました。
「にじり口」は、船に乗るために出入りする潜り口を採り入れたというものです。
(※諸説あり)

茶室の中は、現実世界でありながら、異質な空間。
価値体系が全く異なるのです。

一歩外に出れば、戦国の世、首をとり手柄をあげることが価値がある。
茶室の中は、掛け物や道具に凄まじい価値がついていて、
そこで求められたのは「和」だと思います。

「えんとつ町のプペル」の真髄とは?

作者の西野亮廣さんは、
「えんとつ町は、夢を語れば笑われて、行動すれば叩かれる、現代社会の風刺。」と言ってます。

「他の誰も見ていなくてもいい。
黒い煙のその先に、お前が光を見たのなら、
行動しろ。思いしれ。そして、常識に屈するな。
お前がその目で見たものが真実だ。
あの日、あの時、あの光を見た自分を信じろ。
信じぬくんだ。たとえ一人になっても。」
と父親の言葉を引用しています。

この主題を茶道的に解釈すると、
「和」になると思います。

「和」と「同」は違う

「君子は和して同せず、小人は同じて和せず」と孔子が言うように
同=和ではありません。

和することは、「右にならえよ、みんなと同じことをしろよ」という「同」とは違う。

「和」は人や環境と調和しつつ、縦糸にあたる自分の意志は大切にする、という「想い」だと思う。

「夢なんて大人になる時に捨てたんだ、みんな捨ててるんだからおまえも捨てろよ。そんなものはゴミだ。」という「同」。

そんな「同」に軸足をおいていては、何も為せない。
そんなことは紀元前から言われていて。

これを現代版に、現代人に、子どもたちにも突き刺さるようにしたものが、絵本「えんとつ町のプペル」だとマエシマは(勝手に)解釈しています。

「和」

「和」自分の志を立てて、
挑戦することにこそ価値がある。

そんなことをテーマにしたこの絵本は、
茶の湯が目指す「和」とやっぱり地下で繋がっているように感じてしまうのです。

「和 天下第一寶也」

和は天下第一の宝ものである。

やはり、絵本「えんとつ町のプペル」を茶道的に解釈すると、「和」というひとつの理がその芯にあるように感じてしまいます。


2020年のクリスマスには、映画「えんとつ町のプペル」が公開されるようです。
こちらも、見逃せません!


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