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#17 撮影

いつの間にか、公開が近づいてきた。

1年は早い。公開が延期になったので、その間、なんとなく忘れられないために、コツコツと書いていたこのプロダクションノートだが、前回から急に更新が途絶えた。それには訳がある。まず、私は、#16「撮影前」を書いた直後、何者かに連行され、古い城の牢獄に閉じ込められた。高い塔のような円柱状の牢獄の底で、私は、ロープにつるされた毎朝と毎晩のわずかな食事を与えられ、そして、何者かの声に、尋問され続けていたのである。

「おい、いい加減、認めろ」
「何をだ!」
「このプロダクションノート、嘘だろ!」
「違う!、すべて本当だ」
「脚本の国なんて、あるわけないだろ!」
「知らないだけだ!」
「・・・認めないなら、ここにいるまでだ」

夜になると、私の頭上には、満点の星が瞬き、そして、わずかな円形状の隙間から、月がのぞいた。私は、寂しさに身を震わせ、そして一人、むせび泣いた。どうしてこんなプロダクションノートなんて書いてしまったのか。日本映画界のありのままを書いただけなのに。おそらく、そういった団体からの圧力か。いや、私は、決して屈しない。このプロダクションノートの続きを書かなくていけない。しかし、今の私には、書くペンもなければ、パソコンもない、WIFIだってありゃしねえ。私は負けない。足元に転がった小石をひとつ手にとり、そして、石壁に、#17を掘りだしたのである。

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#17 「撮影」

撮影が始まった。俗にいうクランクインというやつだ。映画監督である私は、今日も地面の蟻を見つめていた。映画監督のイメージといえば、帽子をかぶり、サングラスでメガホン片手に、椅子に座り、大声で、よーいスタート!と叫ぶ人だと思うが、実際も、そう思って差し支えはない。今もなお、日本の映画監督のほとんどが、ハンチング帽子をかぶり、サングラスをかけ、メガホン片手に叫び、台本をぞうきんのように丸めて、尻ポケットにしまう人がほとんどなのである。これは、そういう風貌をしていないと、日本の映画監督の風紀やイメージを取り締まっている団体から、圧力がかかるのである。ちなみに、撮影現場でipadをもっている監督は、だいたい射殺される。

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では、映画監督は一体何をしているのか。その仕事のほとんどが準備に費やされるのである。撮影する頃には、仕事の大半は終わっていて、実際の撮影中は、地面の蟻を眺めているうちに、終わってしまうものなのである。映画監督と呼ばれるほとんどの人は、皆、地面の蟻や、干からびたミミズ、カメムシや、みたことあるけどよくわからない虫なんかを、じっと見つめているのが仕事である。ハンチング帽子をかぶり、サングラスをしているのは、それを隠すためでもある。
蟻は、暑そうに、その地面を歩きまわり、そして、小さな巣穴へと入っていき、そして、這い出てくると、今度は行列をなして、干からびたミミズなんかを引きづっていく。そんな蟻たちの生きる力を感じ、たくましい姿を見ていると、横からスタッフが「今のはオッケーですか?」と尋ねてくるので、本当は、蟻しか見ていないのだけど「オッケーです」と答える。するとこぞってスタッフのみんなが「オッケーです!」と叫び、そして次の撮影シーンへと移っていくのである。

「子供はわかってあげない」の場合は、真夏の撮影だったので、蟻よりもむしろセミであった。セミが鳴くと余計な音が入ってしまうため、まずは、このセミを退治するところから、撮影は始まる。スタッフがだいたい五百人くらいだから、全員が、まず現場に入り、木登りをして、そこらじゅうの木の上のセミを叩き落とすところから、撮影が始まるのである。しかし、セミもしぶといし、どの木にもセミはいるので、撮影のほとんどの時間が、このセミ退治に費やされてしまう。実際に、撮影ができるのは、一日三十分程度だろうか。あとの数時間は、ずっとセミを退治している。それが今の日本映画における夏の撮影の風景なのである。

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