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性と生を考える仲間との出会い⑥正解のない問いにみんなと向き合う「対話」との出会い

このnoteでは、女の子として生まれ、「ちいちゃん」と呼ばれて育ってきたかつての自分。男性として生き、「たっくん」と呼ばれ、福祉の専門家として働いている今の自分。LGBTQ当事者として、福祉の現場に立つ者として、「生」「性」そして「私らしさ」について思いを綴ります。(自己紹介はこちら)
自分の言葉で「性」の問題を講演会などで語り始めるようになったものの、そこに消し難い違和感を覚え始めます……。そして、ただ私が一方的に語るだけではなく、1人ひとりが「自分らしさ」について性と生から考える「対話型講演会」を始めます。今回もそこに至るまでの経緯をお話しします。

32歳になったころから、教育委員会や学校などから、人権に関する講演会の講師として招かれ、「女性の身体と男性の心」という身体と心の性が一致しない自分の苦しみ、そして性別移行など、自分の人生を時系列で語る機会をたくさんいただくようになりました。

講演を聞いて、たくさんの人たちが涙を流してくれました。泣いてくれる人が多いほど、よい講演をしたと自分でも満足していました。

でも、あるとき、私は気がついたのです。講演を聞いて泣いてくれるのは、自分がひどくかわいそうだと思われているから。それだけの理由。結局、赤の他人である田崎智咲斗が直面した問題にすぎないのであり、講演を聞いた本人の問題にはなっていない、と。

実際、講演後のアンケートなどでも「田崎さんはかわいそうですね」「これからは幸せになってください」など、私に向けての言葉ばかり。講演を聞いた自分自身のあり方を振り返ったり、自分自身の社会へのこれからの向き合い方について語ったりするものはほとんどありませんでした。

私の妻は、私との結婚にあたって、子どもを産まない選択をしたということを話した講演では、「子どもがいらないなんてありえない。田崎さんの奥さんはきっと我慢をしている。子どもをつくることができない田崎さんとの生活では、奥さんは幸せではないはずです」と書かれたこともありました。

私と出会う前から妻は子どもを欲していませんでしたが、そうしたことをお話ししても「そんなことはありえない」と受け止めてもらえませんでした。

自分の当たり前、自分が考えている幸せと、田崎のあり方や幸せは、決して交わることがない。そう拒絶されているようでした。

私もみんなと変わらない1人の人間であること、それぞれの人にそれぞれの生き方、幸せがあること、それは比べたりできるようなものではないことを伝えたいのに……。講演をする私と、講演を聞く人たちとの間の溝が埋まらない日が続く中、転機が訪れました。

2018年12月、佐賀県の団体に講演に呼んでいただいた際、福岡県の津屋崎という町で、「対話」によるまちづくりに取り組む山口覚さんを訪ねました。

どの「まち」にも、さまざまな年齢、職業、そして価値観の人たちが住んでいます。その「まち」を「対話」という営みを通して、みんなにとってよりよい場所にしていこうとする山口さんに、わかり合えない溝をつくっている自分の講演会について相談しようと思ったのです。

山口さんは私に言いました。「どうすればよいか誰も正解を持ち合わせていない課題だからこそ、講演を聞いてもらうだけでなく、みんなで対話したらどうだろう」。

自分の経験や考えを、どんなふうに説明すればわかってもらえるか、自分事として考えてもらえるか、そのことばかりに苦心していた私でしたから、講演を聞いて話し合ってもらうというやり方は想像もしていませんでした。本当にそんなことができるのだろうか……。

いぶかしげな表情を浮かべていたはずの私に、「田崎さん自身がまず体験をしてみましょう」と、山口さんは津屋崎で定期的に開催している対話の場への参加を勧めます。津屋崎を訪れたちょうどのそのタイミングにこうした場があったのもきっと何かの縁だ……私は参加することにしました。

そのときの対話の場のテーマは、「討論と対話」。参加者が関心を持っているテーマを出し合い、討論と対話、両方からのアプローチを試みるというものでした。テーマが「同性婚は是か非か」になったのは今思えば不思議な偶然です。

まず最初は、討論です。みんなが自分の考えを主張し、相手の意見に疑問をぶつけ、反論します。一人ひとりの考えの違いばかりが浮かび上がり、折り合いはつきません。

そして今度は、対話です。自分の考えを自由に述べるだけでなく、相手の発言を否定せず、じっと耳を傾けます。また、自分の意見をすぐに明らかにせずにただじっと話を聞くことも許されます。

驚いたのは、「同性婚」をテーマに対話を始めたはずなのに、性的マイノリティの切り口だけではなく、その人のアイデンティティを大切にする社会のあり方、さらには生産性とは別の豊かさの存在など、想像をこえた話題へと広がっていったことです。

そして、互いの考えからヒントをもらい、時にはつなぎ合わせながら「こんな社会になったらいいね……」と自分事として語っていました。討論では考えの違いが明らかだった人たちが、対話では互いの言葉に「うん、うん」とうなずいているのです。

山口覚さん(左)と私(右)、津屋崎にて

自分の考えが唯一の正解だと思わないようにしながら他者の言葉に耳を澄ますことで、自分一人ではではたどり着けなかった気づきに至ることができる! 山口さんとその仲間とともに体験した対話に、私は感動していました。

自分の講演でも対話を取り入れることで、「田崎さんはかわいそう」「私と田崎さんは違う」と、自分と聴衆を分断していた状況を変えることができるのではないか。私はそう思いました。今までとはまったく異なる講演スタイルにワクワクしながら、でも自分にそんなことができるのだろうかと不安もありました。

しかし、チャンスは意外に早く訪れました。2019年2月、山口さんのファシリテーション(対話の進行)で、性と生を考える対話の場をつくることになったのです。今までの講演会との一番の違いは、私が話す時間よりも、参加者が私の話を聞いて語り合う時間の方が長いこと……いったいどうなるのか!? 次回、4月12日の投稿で詳しく紹介します。

【これまでのnoteはこちら】


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