集合den。

そろそろ記憶も怪しくなってきたので、集合denについて書き留めておこう。

集合denは、東京教育大学のデザインの教授だった勝井三雄さんが、講談社が科学大辞典を編纂する際、学生たちを集めて大塚伝通院(新選組がはじめに集まった場所だ)の裏手の一軒家で作業を始めたのが母体になっている。印鑑は「傳」、ロゴは赤い正方形が二つと長方形が二つ、等しい隙間を置いて並んだデンマークの国章だった。

ぼくは芸大を出て美術家として生きていくつもりで、かといって美術家としてのしあがろうという意欲もさしてなく、フロムAで見つけた小さなデザイン事務所でバイトして生活していた。
あのころは雑誌の時代だった。そんなころに雑誌デザインをするとき、教科書(憧れ、あるいは模倣の対象)は、GORO、写楽、流行通信のK2デザインと、マガジンハウスの集合denのデザインだった。
そんななか、たまたま飲みで知り合った集合denにいるB.S.が「人を探している、うちにこない?」と誘ってくれた。当時のぼくの感覚からすれば、雲の上から声をかけられたようなもんだった。


たまたまマガジンハウスそばのH画廊で個展をしたときに、集合den の五十音順で社長をさせられているというI.K.氏が面接に来てくれた。「なんでデザインなんかやってるの」「食べるためです」「僕と一緒だ」という短い会話と、持参した雑誌のぼくの戯けたデザインを見ながら「面白いじゃん、決めた、うちにきてくんない」ということで、集合den に入った。

その当時まで集合den の名刺は表に社名と住所、裏にメンバー全員の名前が印刷され、人に渡すときに自分の名前に丸をつけて渡すというものだった。ぼくが入ったときにたしか21人。ぼくはその名刺を持つことはなかった。


そのころden は、講談社の何年もかかる事典もののデザインを担当する一方、マガジンハウスが次々と創刊する雑誌で仕事が増えつづけていた。
元はと言えば戦後平凡出版(マガジンハウス)とともに歩んできたデザイナー堀内誠一さんが集めた「anan」のデザイナーチームにI.K.氏の妻Yさんが飛び込みで加入し、「Yちゃんの旦那さんデザインやってるんだって? 今度の新雑誌やれない?」てな会話で始まったと聞く。ということで新雑誌「クロワッサン」のデザインを集合denがやることになった。堀内チームのS.M.氏らが「popeye」「olive」「BRUTUS」の創刊に取り組む一方、denが「エル ジャポン」「ターザン」などの創刊に関わりはじめる。


そんな頃にdenに入ったぼくは。半年くらい経ったころだろうか、I.K.から「田代、単行本やる?」と聞かれた。「やりたい」とすぐ答えた。それはI.K.が講師を務めていた日本エディター・スクールが出版する本、どういう経緯か知らないが、出版・編集とは何のかかわりもない、阿部謹也氏の中世ヨーロッパに関する本だった。カラー図版が多いので相談されたらしい。で、それを丸投げされた。denのおじさんたちも事典と雑誌しか経験がない。書籍づくりはゼロから勉強するしかない。逆にエディター・スクールの出版物を読みまくって何とか一冊をデザインし終えた。

しばらくした頃、マガジンハウスが書籍出版部を立ち上げるということになった。で、またdenに打診が来た。den で書籍制作経験があるのは、入社数年めのぼくしかいなかった。結果マガジンハウス書籍出版部、初代アートディレクターになった。30代に入っていたかどうだったか。書籍部ぶち上げの第一弾はムック3冊、書籍10冊、アートディレクションした。

マガジンハウス(旧平凡出版)は戦後すぐに発足し(はじめは「凡人社」)、「月刊平凡」そして「週刊平凡」さらに「平凡パンチ」で急激に大きくなった会社だ。社内の権力争いがあっただろうことは想像できる。創業者清水達夫氏の片腕として雑誌を作ってきたK滑氏とA糟氏の次期社長争いは、半ば勝敗が決していた。さらにK滑氏の右腕、I川J郎氏の、フリーの人間を自在に起用する兄貴的編集部に対して、A糟氏の右腕E名氏は家族を大事にするタイプ、「anan」「クロワッサン」「ELLE JAPON」を通じて、多くのカメラマン、スタイリスト、執筆者を育てた。しかしある日E名氏はスキャンダルとともに、会社から姿を消した。
社内で追い詰められたA糟氏が逆転を期して立ち上げたのが書籍出版部だとぼくは感じていた。一人で昼食に行くA糟氏の寂しげな後ろ姿が今も忘れられない。
しかし書籍出版部立ち上げは、時期社長候補の肝煎りの大事業ではある。編集長は2人、雑誌の副編をしていたI崎氏(現会長)とI関氏。編集者デスクには「anan 」編集部では口をきくのも憚られたベテラン編集者と、新入社員数人が席を占めていた。

マガジンハウスは、東銀座周辺に多くの不動産を所有していた。ほかに港区にも不動産を所有し、「anan 」創刊時の編集部は六本木交差点に近いビルにあった(オサレだ)。そこから編集者を公募し、その応募者のなかにまだ10代だった映画評論家Y.N.氏の姪、Y川M子氏がいる。彼女はポパイの彼女というコンセプトで創刊されたアメリカ西海岸テイストの、まるでサーファー雑誌のようだった「olive」を、S.M.氏とともにフランスの女学生「リセエンヌ」テイストに変身させ、一時代を築いた。

閑話休題。マガジンハウス本社から歩いて5〜6分のところに書籍出版部のビルはあった。ぼくは昼間そこに行き書籍のディレクションをし、夜は雑誌のデザインをするという生活を送った。眠くなったら新築間もない本社ビルの吹き抜けに面したガラス張り脇の打ち合わせテーブルの長椅子でイビキをかいた。図々しいガキだった。書籍部立ち上げの10冊をden のメンバーに割り振り、ムックはden の兄弟的会社、渋谷で広告デザインを業務としていたAVANTのスタッフの助けを借りた(東京教育大の同時期のデザイン学生が、出版に進むか、広告に進むかで分かれた人たちの会社だ)。
そんな書籍出版部でぼくは、年長でベテランの雑誌編集者に書籍の編集を教え、年長でベテランの広告デザイナーに雑誌デザインを教えた。生意気この上ないが、ほかに方法はなかった。


雑誌「anan」はある時期からサブタイトルに「ELLE JAPON」と入れるるようになっていた。やがて雑誌「ELLE JAPON」が創刊。I.K.氏のアートディレクションも含め、いま見ても独特の誌面づくりだったと思う。発行部数は「anan」の8〜10分の1程度なのに広告収入は「anan」以上という雑誌だった。
しかしアラブ系の資本「コンデナスト」傘下に入ったフランスELLE社の、日本で合同子会社を設立しようという提案をマガジンハウスは断ることになる。結果日経と合同で設立された日経コンデナスト社から「ELLE JAPON」は発行されることになった。


マガジンハウスはそのままの編集部で「CLiQUE」を創刊する(現在「GINZA」となっている)。紆余曲折を経て、ぼくはそのアートディレクターになった。それから半年、さらに紆余曲折を経て、ぼくは集合denを去った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?