哲学する心―気づけばみんな哲学者

「哲学って、なんの役に立つんですか…?」
これまで何度も聞かれた質問だ。大学で哲学を専攻したと言うと、多くの人はそう聞きたくなるようだ。

大学生だった頃は上手く答えられなかったが、今なら答えられる。「常に考え続けることができるよ。それって素晴らしいことじゃないか」と。

Jun Turner@今から君も哲学者 さんが、昨日こんな投稿をされていた。

「日常のすべてに疑問を持ってみることが生活を豊かにする」、「考えることは楽しい」と、「考える」ということへの愛に満ち溢れた文章である。

私が哲学に興味をもつようになったきっかけは、以下の記事で書いた。

鷲田氏の本を読んだ私は、「そもそも『じぶん』というものについて疑問を抱き、考えるなどという発想はこれまでなかった!まさに世界が開けた!」と興奮したのだ。

しかし、いざ大学に入って哲学を専攻してみると、「ん?」と思った。
当然だが、そこで行われていることの多くは「哲学すること」というよりは「哲学研究すること」だったのだ(中には、まさに『哲学する』を実践されている先生もいらっしゃった)。
様々な思想家が著した書物を紐解くのが、とても楽しかったのは事実だ。ただ、ここでなくとも「哲学する」ことはできると思い、研究の道へは進まなかった。

…思わず昔語りが長くなってしまったが、このたびJun Turner@今から君も哲学者 さんの投稿を読んで、私も「今から君も哲学者」計画に賛同を表明したくなったのだ。

なにも、難しい学術用語を使う必要なんてない。そもそも、本質的な問いはいつだってシンプル。「人はなぜ生きるのか」、「そもそも、生きるとは何か」等々…。
そして、答えも出さなくてよい。というか、出ない。出てきたと思っても、少し時間をおいて考えてみると、さらに根本まで遡って考えてみる余地が出てきたりする。哲学書は面白いが、そこに書いてあるのは「答え」ではなく、あくまで個々の思想家(哲学者)が考えたことの軌跡なのだと思っている(もちろん、それを追体験することには大きな意味があると思う)。

かつて、『ソフィーの世界』という小説が流行った。いわば哲学の入門の入門、といったところのものなのだが、あまりに売れすぎたゆえに不当に低い評価をされていたように思う。
だが、きっかけはなんだって良いのだ。
日常のふとしたことについて「あれ、でもこれって…」と疑問を抱き、じっくりと考えていく。自分一人では行き詰まってしまったら、誰かに疑問を持ちかけてみるといい。そうすれば、自分にはなかった視点で、新たな気づきを与えてくれるはずだ。だって、一人ひとりはみんな違うのだから。

誰かが考え始めて、それを誰かにぶつけてみることで形が変わり、さらにそれが別の誰かに伝わり…と、「哲学する」ことの化学反応こそが醍醐味なのである。

「日々の生活で手一杯で哲学している余裕なんてないよ」と言う人がいるかもしれない。そのような人でも、「なぜ自分はこんなに手一杯なのか」「なぜ現状を打破できないのか」と、「なぜなぜ」を突き詰めていけば、何か解決の糸口が見つかるかもしれない。

※最後の段落は、どうまとめようかかなり悩みました。私としては「哲学すれば世界は変わる」と信じたいのですが、この点、ご意見・ご批判等もあろうかと思います。何卒、ご容赦ください。

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