霞 第二章(02)

「ねえ、熱くない?」
「あ、ごめん。水の量を増やそう。」
そう言った彼の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。熱めのお風呂が好きな私のために、水の量を控えてたんだ。
「ふふっ。相変わらず、放っとくんだね。」
「え、いや、外をじっと眺めて感慨深げな顔をしてたから、声をかけづらくって。」
「そうじゃなくて、自分のこと。」
「ん?僕は君の背中を見て楽しんでたよ。」
「またそうやって。」
言葉を続ける代わりに、湯の中を進んで行き立膝を割り背中を預けた。そして両手をとり自分の前で交差させる。
「もう、一年以上経つんだね。」
「そうだな、長かったような、あっという間だったような。君との間にも仕事にも、いろんな事があったね。そういえば、あの家族どうしてるかな。」
「きっと、あちこち新しい温泉探して回ってるんじゃない?。」
彼の手が胸を離れ、両肩を優しくゆっくつかんだ。それから押さえつけるようにしながら指を回し、コリをほぐしていく。
「家族そろって温泉旅行。まったくうらやましい。是非、最新の隠れ家温泉の情報を伺いたいもんだね。」
「私はあの奥様ともっとお話したい。とても素敵な女性だったから。」
彼の指の動きに合わせるように、ゆっくりと首を回す。時折、鳥の声が風の音に混じって聞こえて来る。背中で感じる彼の鼓動が、少し早くなった。
「確かに。家族思いでとても優しかった。でも外見と裏腹に、あんなに強い心を持っているなんてね。人は話してみなきゃ分からないもんだ。」
そう、とても強い女性。田舎の旧家にありがちな、家柄、舅、姑、小姑との軋轢、子育て。ご主人の裏切りとその相手の事故死。怨むのではなく、その原因は自分にあったのではないかという冷静さ。話していると、女性でもこれほど強くなれるのかという尊敬と、ここまで自分に厳しくなれるのかという畏れさえ感じた。
「彼女は、理想像よ。私もあんな風に強くなってあなたをいじめてみた…クッ!」
突然首筋を強くつかまれた。
「ちょ、ちょっと待って。それ、痛い!」
「ずっとパソコンで作業してるからかな、ものすごく固いよ。」
「かもしれないけど、で、でも。う~っ、い、痛いってばっ!」
もう!こっちが痛がってるのを楽しんで、余計に力を入れてる。いいわよ、そっちがその気なら…
「痛ったー!な、なにを…。」
へへん、両掌を置いてた膝から滑らして、すね毛を一つまみ引っこ抜いてやったわ。
「おあいこでしょ?あなただってわざと力入れたんだから。」
そういってお湯から指を出し、引っこ抜いたすね毛を彼に突き出した。あ、あらま。思いのほかたくさん抜けてる。ほんとに痛かったんだ。
「ひぇ~、こんなに。」
「ごめん、まさかこんなにたくさん抜けるなんて思わなかったから。じゃ、お詫びに背中流してあげる。」
ちょっとやりすぎちゃった。でもすんじゃったことは仕方ないよね。何とかこれ以上彼を怒らせないようにしないと。大きく深呼吸すると、気を取り直して湯船から上がりタオルを泡立てた。
「ご主人様、どうぞこちらへ。」
三つ指ついて促すと、
「うむ、苦しゅうない。」。
と大仰に肩を揺らして目の前に腰かけた。
 彼の背中は広い。誰に比べて?ってきかれても困るけど。タオルを当てようとして、変なものを見つけた。背骨の真ん中あたりに掻き毟った跡。
「へ~、昨日はどなたとお楽しみだったの?」
「なんのこと?」
「とぼけたって駄目よ、背中の傷がはっきり物語ってる。」
「傷?ああ、藪蚊にやられて掻きむしった跡だよ。つつじの剪定をしてる時にやられてね。痒いのなんのって…い~たいっ!」
爪を立ててうなじから腰まで引っ掻いた。もちろん彼が浮気をしない事は知っていたから、変な心配はしてないよ。でも、ちょっとね。
「どう、かゆみは治まった?」
「ひっどいなぁ。もうとっくに痒みは治まってるのに。楽しんでるな、まったく。」
そっ、私はS。こんな絶好のチャンス逃す手はない。お湯に浸かって血行が良くなっているのか、みるみる赤い筋が三本浮かび上がった。その背中を泡でそっと覆い尽くし、立ち上がってうなじからあごの下を洗う。それから肩から腰まで洗い終えるとこちらに向き直らせ、胸、腕、腹、脚全体を洗ってあげた。
「後はご自分でお願いいたします。」
改めて三つ指を付いて湯船に戻ろうとすると、
「え、もう終わり?全部洗ってくんないの?」
「この際と思って甘えないの。いつも自分でやってるでしょ。私は風俗みたいなことはしないよ。どうしてもとおっしゃるなら、そこにも赤筋のアクセントつけてあげようか?」
「いやいや、勘弁してよ。」
敵わないとでも言いたげに頭を振りながら椅子に座ると、勢いよく不満げに桶の残り湯を身体に浴びせた。
「じゃあ、今度は僕が洗ってあげる。」
「遠慮する。復讐しようって魂胆、見え見えだよ。」
「いや、絶対にそれはない。晩ご飯賭けたっていい。」
「安っぽい賭け。でもまあいいや、信用したげる。」
言われるまま椅子に座り、彼に背中を向けた。うなじから右肩、右腕、指先まで丁寧に洗うとタオルを切り返し、今度は左肩へ。左腕、指先、タオルを切り返し、背中を撫でるように手が滑っていく。とても気持ちいい。と思っていたら、右のわき腹から上へ向かった手は脇の下越しに喉を進み不意に顎をつかんで上を向かせた。唇が重なり、静かに舌が押し込まれた。いつも通り、優しいキス。しばらくなすがままに任せていたけど、はっと気づいて唇を離した。
「これ以上は、駄目。欲しくなったらどうしてくれるの?」
「ここであげるよ。」
「んーもう何それ。こんなとこじゃ、いや。」
タオルを取り上げ自分で洗うと、さっさと泡を流し湯船に戻った。
相変わらずの青空。心地よい風が目の前の草の葉を揺らしている。首に寄せるさざ波で、彼が横に座るのがわかった。
「いい天気。山の緑が青空に映えて、鮮やか。」
「そうだな。あの日もいい天気だった。ただ、青空に映えていたのは雪山だったけどね。」
あの日…そう二人の関係が一歩進んだ日でもある。色々な話をし、まだ正式な形にはなっていないけどお互いをパートナーと決めた。それからは彼の部屋に夕食を作りに行ったり、私の部屋で一緒に映画を観たりするようになった。それまでは表面的な、いやなんて言うか、そう、身体を求め合うだけの薄い関係だったような気がする。それが、二人で創っていく未来を語れる関係になった。互いの仕事の事を話し、不満を言い、助言しあい、語り合い、心が軽くなっていく。相手をいたわることで自分も満足でき、この先何年も支えていきたいと思うようになった。何年も…
「お湯が止まった。そろそろ食べごろになったろうから、先に上がって準備しておくよ。君はしばらくしてから上がってきて。」
立ち上がり私を見下ろしてウィンクすると、一呼吸置いて脱衣所へと消えた。まったく、わざわざ確認させなくても。