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短編198.199『バイ・バイ・ブラックエレファント』(まとめ読み用)

 酒を飲み過ぎた、といっても過言ではない。ゆうにバケツ五杯は呑んだ。おかげで今朝は顔面が三センチほど前に飛び出している。目蓋はほとんど開かない。視界は二ミリ。その細長い世界では目覚まし時計など用をなさない。それはもはや存在しないのと同じだ。

 膀胱は破裂寸前、胃は決壊寸前。上も下も大忙しだ。昔、「上は大水、下は大火事。な〜んだ」というクイズがあったが、正解は今のおれ、だ。間違いなく。

 こんなにも飲む羽目になったのは政府のせいだ。緊急事態宣言とやらで店が酒を出さず、その後の顛末によってコンビニで酒をしこたま買い込んだ結果がコレだ。あればあるだけ飲まねば気が済まない性格故、買った壱万円分の酒は一夜にして消費された。ビール、酎ハイ、安ワインに業務用焼酎。一つ一つの単価は安くとも、合計したアルコール度数は百%を軽く超える。パーセンテージとは一体、何%まで数えて良いのだろう。

 アルコールが体内に入った場合、それは単なる足し算じゃない。掛け算だ。しかも全てに二乗が付く始末。数学者には割り出せない答えを求めて、酒を呑む。それが”酒飲み”という人種だ。

 ーーーさて。昨夜の話でもしようか。何故、そこまでの量の酒をコンビニで買うことになった、ことの顛末でも。

          *

 デートだった。マッチングアプリで知り合った女は巨大だった。象が生んだ、と言われても素直に頷いてしまうくらいには大きかった。そしてそれは、おれの好みだった。

 マッチングアプリの目的は一つ。肉弾戦。ヤリモク、ってやつだ。純愛はそこからは始まらない。愛が欲しければ図書館にでも行ったら良い。そして、誰かと手が触れ合うまでじっと待つ。「あっ…」なんて、ね。そんな時間は勿体ないと考える男女はアプリに希望を託す。そこで始まるは肉欲の宴。マルキ・ド・サドも慄くようなリアル・ソドムの市の開幕だ。肉が肉を貫く狂乱の一夜しか要らない。

 電車は西武新宿駅に滑り込んだ。普段は暗く滲んだ通勤路だって、それがデートともなれば輝いて見える。個室トイレで髪型を整え、コロンを振りかける。股間から薔薇の匂いのする男を目指している。

          *

 駅前で会って、徒歩三十秒の居酒屋に入る。時間は十七時。夏の陽は明るい。居酒屋の裏はホテル街になっている。これぞ新宿スタイル。リアルしか謳わない。街に敬意を表して『MSC』のTシャツを着て行った。女は〇〇(注・コンプラ)のTシャツを着ていた。
 傍から見れば新宿と〇〇(注・コンプラ)によるビーフの再来かと思うだろう。我々は日本古来の串刺しチキンを注文することにした。

 問題が発生した。メニューから酒が消え、ノンアルコール飲料しか置いて無かった。今が緊急事態だということは長引く惰性によって忘れていた。帝都崩壊。おれはメニューを床に落とした。

「ほら、ドイツのノンアルコールビールもあるよ」と女は言った。床に落ちたメニューを律儀にも拾って渡してくる。良い子だと思った。
「おれにとってのビールの味は『酔う』ということと分かち難く結びついてしまっているんだ。門柱に絡みつく蔦の如くにね」
「こっちのカクテルとかはどう?」女は尚も食い下がる。
「カクテルなんて酔えてこそだろ、と思っているよ。毒々しい色をしてる癖にアルコールが入ってないなんてお笑い草だ」
「じゃあこのクリームソーダにする?」と女は微笑む。
「なぁ俺たちは初めて喫茶店に来た昭和のモボとモガなのか?」
「じゃあ一体どうしろっていうのよ!」

 店中に響く大声。女はその長い鼻、いや大きな手のひらで机を叩いた。少なくとも割れはしなかった。客は全てこちらを見ている。象と象使いを見るような目で。見るな。別にこれはショーなんかじゃない。かといって痴話喧嘩でもない。心外だ。

「出よう。コンビニで酒買ってホテルでゆっくり飲もう」
「ホテル?」と女は言った。
「そう。裏に良いホテルを知っているんだ」その『良い』はおれの財布にだけ『良い』ということは伏せておいた。秘密のない男なんてカッコ悪いだろ?

「そういうことは結婚してからにしたい」と女は言った。
「結婚?」おれが尋ねる番だった。
「そう。私はアバズレじゃない」

 ーーーおまけに人間でもない。

 という台詞は喉元に押し留めた。紳士だからだ。連絡先交換とまた会う約束を取り交わし、その指でアドレスを削除した。バイバイブラックエレファント。

          *

 持て余した性欲は殺し損ねた虎に似てタチが悪い。満身創痍、尚も立ち上がっては襲ってくる。陽はまだ高い。お天道様は帰路を照らす。お月様はまだ出勤準備前。きっとメイクに手間取っているんだろう。

 おれは政府を恨んだ。純粋な機会損出。政府はおれから酒を奪い、女を奪い(酔っていれば出来た筈だ)、放出されるべき精子も生殺しだ。その罪は深い。不快な下半身を携えて街を歩く。すれ違う女が全て可愛く見える。この両目ではなく、下半身が見ているんだろう。

 気は進まなかったが、ナンパをすることにした。昭和の漢らしく、足で稼ぐ。財布からホテル代だけを抜き取り、あとは投資金として割り切った。おれなりの、ホ別ワリキリ、ってやつかもしれない。

 コンビニの入り口に立ち、入ろうとする女の子に片っ端から声を掛ける。店内まで着いて行って、その度に酒を買い(コンビニへのせめてもの償いだ)、それを餌にホテルへと誘う。断られても断られても、断られてもここは天下の東京シティ。コンビニに吸い込まれる人間は無限にいる。巣穴へと帰る蟻んこみたいなものだ。

 三時間が経った。おれはパンパンに膨らんだ三つのビニール袋を持ち、コンビニの前に立っていた。両腕の筋肉はバンプアップされ、悲鳴を上げている。ーーー筋トレをしていたんだっけ?性欲は既に肉体疲労へと昇華されていた。パンパンの袋、パンパンの両腕、先程までは確かにパンパンだった棒。『上は大火事、下は鎮火済み。な〜んだ?』

 おれは家に帰った。

          *

 二日酔いの頭をもたげる昨夜の記憶。それは全ての二日酔いが内包する後悔を確と抱き留めていた。砂抜きの終わらないシジミみたいに。

 Amazonのアプリを開き、中島らも『今夜、すべてのバーで』を注文した。勿論、戒めの為に。




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