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拝啓ユング様、心の傷はもう癒えましたか? ~ 臨床心理士 公認心理師

 黄昏の頃、その客人は来店した。
 
 アースカラーの着こなしに定評がありそうな女性。ゆるくウェーブのかかった髪型がそういった空気感に説得力を持たせている。
 鋭角に結ばれた口元は内側に秘めた静かな決意を具現化しているようにも見える。
 窓際のカウンター席に着き店主の、いらっしゃいませ、の声にカフェオレをお願いします、とやわらかな口調で返した。
 
 ケイコさん。臨床心理士であり公認心理師。
 
 その昔、精神的に何らかの異常を来した人に対してオカルト的、もしくは超常現象的な扱いで対処していた時代があった。
 ジークムント・フロイト。
 精神分析というジャンルの始祖に位置する人物。彼の登場により精神というものがオカルト的な扱いから心臓や肝臓、腸といったようなものと同様の一つの機関であるという認識に変わっていった。心理学という学問の誕生である。
 フロイトの後継者に位置付けられる人物がカール・ユング。一時期は実際にフロイトに師事し共に心理学を研究していたのだが、やがて方向性の違いなど諸事情が絡み袂を分かつことになる。このユングがこんな言葉を残している。
 
 傷ついた治療者。
 
 簡単に言えば、傷の痛みを知る者しか傷を負った者に本当の共感はできず、自身の傷の癒し方を知る者しか他者の傷を癒すことはできない、といったような内容である。
 心理士なりカウンセラーなりはこういった側面を持ち合わせている場合が多く、心の傷を癒す行為というものは、必ずしもその治療を受ける側だけに対する行為ではない、と推測される。
 一般的にカウンセラーであればそう名乗ることによって誰でもすぐになることができる。しかし臨床心理士や公認心理師と名乗るためには大学院などで高度な専門知識を学び資格を取らなければならない。つまり、心というものに対してそれなりの熱意が必要なのである。
 
 ケイコさんはこれまで病院や大手企業でカウンセラーとして働きながら多くの経験を積んできた。担当した患者が快方に向かう様子を喜びとして感じる瞬間を幾度となく体験した。しかし職業柄どうしてもネガティブな精神状態の人と深い部分で接しなければならないことも多く、カウンセラーの立場では仕事として割り切ることができたとしても一人の生身の人間としては厳しい状態になってしまうことも多々あった。
 そんな日々を過ごす中で手に入れたものは、アイデンティティであったり、新しい傷であったり、迷いであったり、強さであったり、気付きであったり。
 やがてそういったバラバラのピースを繋ぎ合わせるための時間が必要になり、カウンセリングの世界からしばらく遠のくことになる。
 
 そんな時期を経て、ケイコさんは子供たちに向けてフリースクールを開設した。
 子供に限ったことではないが人は誰でも多かれ少なかれ何らかの事情を抱え、その中で自分の居場所を探しながら生きている。まだ脆弱で無力な存在の子供がそういった現実と向き合わなければならなくなったときの、心理士として導き出した一つのアンサーがこのフリースクールなのであろう。それは心理学的な観点からみた予防医学という性質を持っているのかもしれない。
 繋ぎ合わされたピースが示した方向は、まだ小さく弱いものに対しての知識と経験の還元であった。
 
 ごちそうさまでした、と会計を済ませたケイコさんは鋭角に結ばれた口元を緩め、森で出会う小動物のような笑顔を残して店を後にした。
 
 今晩はクセの強いチーズでも食べながらジン、それもゴードンあたりを飲みたい気分である。まだ学生だった頃、なにかで読んだことがある。ヘミングウェイ曰く、ゴードンは心の傷によく効く酒、だと。
 いろいろな人が癒されていくことを願いつつ。それはカウンセリングを受ける側も、そして行う側も。
 
 
 
本日のお客様
 
ケイコさん
フリースクール Subako.
Tel:070-1294-1912
Email:subako.20221107@gmail.com
HP:https://fs-subako.com
 

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