見出し画像

戦後日本とサブカルと幸せに生きる、とは

欧米でも進む禅の考え

パリ・テキサスで主演を務め、長年わき役として活躍した ハリー・ディーン・スタントンが主演した映画「ラッキー」の主人公。

彼は冷徹な現実主義者で、劇中様々な出来事を得る中で老いと生きる事について考える(映画の作風はコメディ風なのでそこまで深刻な描かれ方はしていませんが…)そんな中、行きつけのバーでかつて自分と同じように第二次大戦の沖縄戦に参加した退役した老人と話すシーンがあり、ここから沖縄の住人の生きざまに感化を受け、その後に「禅」を学んだという流れがあり…それまでは彼も人生で一番誇ることとして恐らく大戦に参加して日本軍を負かせたという自負のようなものがあったのではと劇中で思わせるシーンがあります。

映画の終盤、自身も「禅」を学んだラッキーがいつものように酒の勢いで常連たちに「禅」から得た教訓を長々と説くシーンがあります。曰くこの世の果ては無、であり意味がないと。では生きる上で何が至上なのかというと彼なりの答えは「笑う」事だと(伝説の教師で松本人志も同じような流れで同じような事、言うてましたね) 

執着やエゴの根の深さ

人間は生まれた時(赤ん坊)の状態では自我がなく=エゴがない状態で笑ったり、泣いたりしている状態なのですが、自我が芽生えると同時にエゴが生まれてしまう。笑ったり、泣いたりすることに自己を主張して他人の気を引くという意識が混ざってしまう。悟りとは自我が芽生えた状態から、どれだけエゴをなくしていけるかの訓練のようなものかもしれません。サブカル的に語ると、イデオンはエゴの肥大の衝突を描いた話だし、ニュータイプは相互理解の概念でシャアの負の精神を背負ったフル・フロンタルが浄化されるアニメのユニコーンのラストは、まさに禅問答を体現したようなシーンとなっています。

漫画バガボンドでも命のやりとりを重ねた武蔵は水と戦い、命のやりとりというそれまでの執着から離れ、諸行無常や他者貢献を学び…ってのがいわゆる「農業編」の筋書きになってますが、作者はそれ以降を勧められなくなってもいます。ある意味ここで描きたいモノを描き切ってしまったのかもしれない(ヴィンランドサガやベルセルクも近い展開を辿っているように思います。因果律を巡る物語でもあるベルセルクにはその「先」を期待していたのですが…。)

亀仙人は名コーチング?

かの、ドラゴンボールのラストではベジータが悟空をついに認めてお前がナンバーワンだ、とつぶやく有名なシーンがあるのですが、実はあそこでベジータの語る悟空の強さの秘密は、原作最初の亀仙人の教えをそのまま体現していた事になり、振り返ってみると作中で悟空は確かに亀仙流の教えを頑なに守っていたりもするんですよね。

ベジータは悟空に執着している限り、共依存状態だとも言えるw悟空は戦う理由はまったく違う所にあったと(超ではこのへんが変わってきていますが)

鳥山明氏はそこまで緻密に伏線を固めていく作家ではないと思うので(まさに悟空のような無邪気さがある人だと思います)天然の産物として?伏線が絡み合った結果だと思いますが、亀仙人が説く教え「よく動きよく学びよく遊びよく食べてよく休め、 人生を面白おかしく張り切って過ごせ」は執着を捨て、依存を回避するのに一番必要なものとガッチリとリンクしていたりもするのだと思います。

亀仙人がスケベだったり、界王様がダジャレ好きだったりという鳥山明流の一種のギャグ??は人生を思いつめずに過ごし、常に明るくすることの大切さも説いているのだろうと。亀じいさんのセクハラを今マネするとやばい事にはなってしまいますが…笑(あれも一面では人間臭い煩悩の塊)

と同時に武道を志すことは名誉ではなく、己に負けない事(故にベジータ曰く悟空は他者を出し抜いたり、殺すことに意義を見出さなかったのですね)と説き、慢心させないために変装して武道会に参加したり、 不当な力で自分もしくは正しい人々を脅かそうという敵にはズゴーンといっぱつかましたれ!!という言葉通り、ピッコロ大魔王には命がけで魔封波をかましたりと、まさに亀仙人はコーチングの鏡だとも言えるでしょう。

シンプルに生きる

最近は何かとミニマリストだったり、マインドフルネス(座禅)だったり、仏教から派生した禅の概念について語られている場面に多く出くわします。かのスティーブジョブズも禅に傾倒し、ミニマルなアップルのロゴの着想を得ています。

ミニマリズムを日本庭園のシンプルで大らかな、無駄な脚色のないスタイルだと考えると、欧米の複雑精緻さの対比のように見えてくる面もある気がします。それの対局はヴェルサイユ宮殿の豪奢で華美な感じでしょう。ただし、ミニマリズムに行きつくにしても一度複雑精緻のものや理論を突き詰めた形までいかないと、ほんとの意味でのミニマリズムの魅力や概念に到達できない面もまたあると思います。これも経験から辿る、悟りの1つ??

最近読んだ本では、健康の本やサピエンス全史など人類の歴史に絡んだ本まで、含めて仏教と禅の合理性を説いた言説をたまたま多く見る機会がありました。少なくとも人生の苦しみを自明のものとし、死をユートピアとせず、かなりの検証を重ねた結果が原始仏教にはあり、そこには相当に多くの人の考えを取り込まれて形作られていったことは間違いなく。流石ガンジス川から人が流れてくる不条理な光景が日常にある国の発祥の概念であると思います。 

統計や科学的実証とも合致する断捨離やマインドフルネス

例えば宇宙はビッグバーンから始まりやがて収束していく、形あるものは崩れていくのは諸行無常で、突き詰めれば生きていく事自体に意味がないと看過する。金持ちが一定の水準の年収を超えた段階で金や物資による幸せでは満足できなくなり、アスリートが全盛期の歓声を求め続けることはけっきょく本質的な幸せとはならずに執着と説く。最終的には寄付などの慈善事業に生きがいを求めるようになり、これは自己への視点から他者への視点に移った事で、人間は本質的には他者に貢献することで一番幸せを感じる生き物であると説いていると。

科学がその後に実証やデータとして示したことを2000年以上前から、提示している。一方で魂とか心の問題は未だに定義が定まらず、単に道徳的であったりユートピア思考であるだけでなく徹底的に現実的で冷徹な視点も持ち合わせているあたりは、実に練り込まれた教えであるなぁと思います。

ミニマリストに通じる断捨離とは執着との分離、マインドフルネスは「いまここ」に焦点を絞り内面へ目を向けることでもあり、特に忙しく日々ストレスを感じる現在ではメディアからの情報を一度遮断したり、何かに集中して取り組む事はパフォーマンスを挙げることへ繋がる事にもなるのだと思います。

淡々と日々をこなすことで必ず先へ繋がることが見えてくる事もあり、だからやたらと日常の作業(掃除など)に目を向けさせる事も禅では多いと言われます。

とはいえ、そういう「悟り」を意識は出来ても、なかなか日常で思うようにやり過ごせることばかりではなく、人生これ日々修行というかなかなか個人が悟りに達するのは難しいと…人間の心は本当に1日の中だけでもみてもコロコロと感情が動いてしまうもの。だからこそみんなメンタルや体調を整えようと四苦八苦しているのだとも言えますね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?