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お好きでしょ、こんなのも……!?

お嫌いですか、ロボットは?#100 これぞ職人技、いや神業?(上)

――いらっしゃいませ。
 マスター元気? いやあ、今週もほんと疲れたわ。

――おや? 今夜もお疲れのようですね。もうウールのコート、いやカシミヤですか?
 いや、そうじゃないんだよマスター。もう小雪(しょうせつ)も過ぎたからさ、というのはよそ行き、表向きの理由でさ。おとといの打ち合わせのあとに一杯やりに行ったら、店員になんとかサワーって、色のついた酎ハイをこぼされちゃってさ。とっさにかわしたら横に置いてたコートにかかっちゃって、シミになっちゃったんだよ。店員は平謝りで、後から店長が詫びに来てクリーニング代を払ってくれたんだけどさ。まだ衣替えが済んでないから、このコートぐらいしかタンスになくてさ。暑いかな、なんて思ったけど電車の中はやっぱり暑くてさ。地下街も暑くて、地上に出たら冷っとする。これじゃさすがのオレも、風邪ひいちゃうよぉ。

――いつものでいいですか? ジャックソーダで。
 うん、頼むわ。レモンをぎゅっとしぼってね。えっと、今夜のおすすめは「キャベツとからすみのパスタ」かぁ。なんだかしゃれてるね。何だか最近は一転して、急にバーらしくなったね。からすみって、日本や台湾ぐらいでしか食べないと思ったら、粉末にしたものをイタリア人も食べるんだってね。オレはつい最近まで知らなかったよ。どこの国の人もみんな、うまいものを探し当てるんだねぇ。まぁ、でも、明太子のうまさだけは、イタリア人の奴らはまだ気づいてないみたいだけどさ。気づいてないと言えば、オレたちもおんなじなんだけどさ。そもそもヒトの手足、特に手の感覚なんてのは、ものすごく敏感なんだけど、知ってる人はあまりいないんだよなぁ……。


 マスターはカメラって興味ある? 写真じゃなくて、カメラそのもの、本体の方ね。好きな人は好きみたいでさぁ、ドイツのライカなんて、デジタルになった今でも1台が100万円以上するんだ。むかしはそれこそ「ライカ一台、家一軒」なんて時代もあったみたいだけど、今とは時代も違うし、機械式じゃなくてデジタルカメラだからねぇ。

 ちなみに100万円ってのはカメラ本体だけで、写真を撮ろうと思ったらレンズもいるからって調べてみると、標準の35mmや50mmのレンズが1本で7、80万円ぐらいするんだ。店頭で実物を見ると、ずいぶんこじんまりしてて、これで100万円近くするの? って感じ。

 分かった、じゃあ買うよ、とは言っても、限定モデルなんかだと発売と同時に、いや発表と同時に売り切れで買えないんだ。じゃあどうやって買うんだといえば、日ごろからお世話になっているライカショップに何度も通って上客、つまりたくさん買ってくれる、店で散財することで関係を深めておくと、事前にナイショで注文を受け付けてくれて、納品の順位も前の方にしてくれる、らしい。まあ、余りにも手に入りにくいものだから、こうした都市伝説みたいなものが、ささやかれるんだろうけどさ。

 むかし、フィルムの時代のライカなんか、その都市伝説そのものも今よりすごかったんだ。前にもここで話したかもしれないけど「1900何年製ライカの箱入り未開封新品」ってうたい文句のライカなんか、箱自体にわざわざラッピングがしてあるんだ。この「未開封新品」ってのがミソで、価値を下げないためには未開封であることが大事。それが何百万円もの値段で取引されるんだ。

 未開封のまま、代々いろんな人の手に渡ってきたんだろうけど、ある人が意を決して開封したらしい。そうしたら、カメラぐらいの重さの石が入ってた、なんて話もささやかれたぐらいなんだ。ウソかホントか分からない話なんだけど、ライカはそんな話がいろいろささやかれるカメラなんだ。

 話がそれたから元に戻すと、レンズは画角を決める「何mm」て数字と、レンズの明るさを決める「F値」ってのが付いてる。F値が小さければ小さいほど明るくて、「F1.0」というのがヒトの目と同じ明るさとされているんだ。暗い場所でヒトの目で見えるものなら、F1.0のレンズで撮れば必ず写るはずなんだ。

 まぁ、実際は三脚を立ててカメラを固定して、シャッタースピードを遅くすれば暗闇でも大概の物は写るんだけど、この場合はあくまで手持ちってのが重要なのね。

 で、技術の追求ってのは際限知らずで、あるときF値が1.0を下回る「F0.98」とか「F0.95」なんてレンズが発表されたんだ。F値が1.0を下回るってことは、ヒトの目には見えないものが写るってこと。主に日没前後の夜景を撮るためのレンズなんだけど、ガラス玉の塊みたいに大きくて、重くて、そしてバカ高い。1本が100何十万円もして、保存状態にもよるけど、マニアの間ではその何倍もの値段で取引されてきたんだ。

 でもさ、やっぱりヒトの目にはかなわないらしい。ヒトの目は、暗闇に慣れたら次第に見えないものも見えてくる。カメラには慣れなんてないから、カメラレンズのF値なんてものは、やっぱりただの数値でしかないみたい。

 で、こんどはカメラのシャッターボタンを押すヒトの手、さらに指の話だけど、すぐれたスポーツ写真って、選手の動きを止めて、汗がしたたり落ちて降りはらわれる瞬間も写し取ることができるよね。実際にカメラマン、フォトグラファーの人に聞くと、撮りたいと思う瞬間にシャッターボタンを押しても、撮りたい瞬間を写し取れないらしいんだ。撮るぞ、ようしシャッターボタンを押せ!と脳が指示しても、実際に指が動くまでにタイムラグが生じる、って言うんだ。

 だから優秀なスポーツカメラマンは「この後にこんな瞬間が撮れるはず」と予想して、瞬間の少し前にシャッターボタンを押す。こうすると、撮りたい瞬間が撮れているものなんだそうな。

 今は報道の世界でもミラーレスカメラが普及したから一概には言えないけど、一眼レフカメラはシャッターが切れた瞬間は目の前が真っ暗になるから、撮れた瞬間はカメラマン自身は見られない。フィルムカメラなら現像、デジタルカメラならモニター画面で確かめないと、瞬間の写真は見られないんだ。

 それにしてもすっごいだろ、ヒトの能力ってものは。でさぁ……。

――ひと昔前ならパパラッチ、今じゃマスゴミなんて言われますけど、マスコミ業界にもそうした神業とも言える職人技があるんですね。まだまだ話は尽きないようですね。今夜もとことんお付き合いしたいところですが、そろそろカンバンです。続きは次回、ゆっくりお聞きしますよ。

■この連載はフィクションです。実在する人物や企業とは一切関係ありません。

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