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死ぬまでにつくりたい10の本と埋名著(my名著)Prologue

 今年(2023年)からフリーランスとして、書籍編集に携わる石井強詞と申します。40年近くの版元生活を経て、残りの人生では、組織では企画できなかった本をつくるつもりです。

 仕事柄、制作した本の売れ行きを確認するため、出先の近くにある書店には必ず寄るのですが、新横浜の「三省堂書店」が閉店していたのには驚きました。日本の書店数は出版科学研究所のデータによれば、2003年の2万1000店弱から2022年の1万1000店強まで、20年間でほぼ半減しています。

 流行作家とはよくいったもので、限られた書店の棚から名前の消えた作家は、いつのまにか読まれなくなります。図書館にある文学全集には収録されず、古書店で探しても見つからない、著作権が不明のため『青空文庫』でも公開されない、そんな世間から忘れ去られた著者と作品を、〝埋もれた本=埋名著〟、そして`自分自身が感銘した本=my名著‘として紹介していきます。併せて作業中の書籍制作現場の裏側を報告します。

 今回はフリーランスになり初めて手がけた本『いのちの言の葉 やまゆり園事件・植松聖死刑囚へ生きる意味を問い続けた60通』(春秋社)の著者・最首悟氏について。

 内容は、神奈川県相模原市の知的障害者施設・津久井やまゆり園で起きた殺傷事件の犯人植松聖(現在死刑囚)との獄中書簡をきっかけに始まった『神奈川新聞』のWEB連載をまとめたものです。

https://www.shunjusha.co.jp/book/9784393334010.html

 最首さんは、元全共闘リーダーのひとりです。還暦間際まで27年間東大助手のまま、「ベトナム反戦会議」など様々な活動をします。水俣病の学術調査では、水俣病を〝国家と企業ぐるみの犯罪〟と断じ、権力と対峙し、栄耀栄華とは無縁の生き方を貫く気骨の人です。87歳のいまもSNSで日本社会の宿痾を告発し続けます。本を制作するため1年間近くご自宅へ通ううち、最首さんの魅力を多くの人に伝えたいと思いました。以下、最首さんの半生をミニ評伝としてまとめました。

東大闘争、水俣病、やまゆり園事件……SNSで87歳の元全共闘活動家が問い続けること

気骨と無垢―最首悟という生き方 ある生物学者の軌跡

「どうやら僕は、アンタッチャブルな存在だったようだ」。和光大学名誉教授・最首悟は、東大助手時代を振り返り、象牙の塔のなかで、周りから煙たがられ、遠巻きに見られていたことを、にこやかに語った。

 最首は現代日本が抱える病巣に真正面から対峙してきた。東大闘争、水俣病の調査、重度障害を持つ娘との生活をきっかけにした施設運営、そして45人もの死傷者を出した「津久井やまゆり園事件」への言及。死刑囚となった犯人の植松聖宛ての手紙という体裁を取り、神奈川新聞のネットメディア『カナロコ』へ寄稿する連載記事『序列をこえた社会に向けて』は、もはや植松から返信の届かない6年目のいまも続く。

 事件の背景にあるのは、優生思想につながる差別意識と偏見だ。どうすれば心を蝕む歪んだ考えから抜け出し、理想の共生社会を築けるのか、最首は自問自答しながらメッセージを綴っていく。

 喘息と結核を病み小学校卒業まで9年かかった最首は、22歳で東京大学に入学。日本中が揺れた安保闘争に参加し、やがて大学院の博士課程へ進み、教養学部助手を務めるが、その間に「ベトナム反戦会議」結成、「東大助手共闘会議」結成、1969年の「東大安田講堂事件」では、大学側ではなく学生側の中心人物として逮捕される。闘争後、再び研究者として、1994年まで27年間助手を務める。もう還暦に手が届く歳になっていた。アカデミニズムに背を向け、政治の欺瞞と経済至上主義の風潮に異を唱え続けてきた半生だった。

 植物学者・牧野富太郎を描いたNHKの連続テレビ小説『らんまん』は、牧野の破天荒な生涯を神木隆之介が演じ、高視聴率で終了したが、最首と同様に、牧野は東大の万年助手として77歳まで務め上げた。牧野は信念を曲げず、好きなことだけを貫き通したが、最首も自分のやるべきことを模索しながら渦中に身を投じていく。

受験参考書がベストセラー!予備校人気講師ブームの先駆け

 助手の給料では生活の厳しかった最首は、駿台予備校論文科講師としても活動し、『医学部への小論文』はベストセラーになった。自身の学術書よりも受験参考書が売れ、やがて受験の神様と呼ばれるようになる。いわばメディアで活躍する林修ら予備校の人気予備校講師ブームの先駆者ともいえる。東大に在籍しながら、生物学者としての本来の研究や助手としてのサポートなど実際には勤務実態がなくても、事務方が気を遣い出勤扱いにして大学側も目をつぶってきた。

 水俣病の原因解明にも関わり、1977年第一次不知火海総合学術調査団に参加、1981年には第二次調査団団長になった。全共闘運動を主導したことで伝説化したこともあるが、東大のなかで、もはや治外法権化した存在になり、いつしか〝アンタッチャブル〟になったのだろう。幅広い活動がメディアで取り上げられ、インタビューで「人気予備校講師」と紹介されるにおよび、さすがに東大内で問題視され、退任することになる。 

国家・企業連合体の犯罪、水俣病に潜む近代社会の宿痾を暴く

 今年(2023年)9月27日、70年にわたり甚大な被害をもたらしてきた水俣病の裁判で、画期的な判決が出た。大阪府などに住む128人の原告が、国と熊本県、チッソ株式会社を相手取り損害賠償を求めてきたもので、2009年に施行された未認定の人を救済する特別措置法が、居住していた「地域」と「年代」によって対象外になることを不当だと訴えていた。大阪地方裁判所は全員を水俣病と認定し、ひとりあたり275万円、合わせて3億5000万円の賠償を命じた。

 第二次不知火海総合学術調査団団長を務めた最首は、いまも多くの人を苦しめる水俣病を「国家・企業連合体の犯罪」と指弾。不知火海(しらぬいかい)に面した熊本県水俣市を中心とする周辺住民が、新日本窒素肥料(現チッソ)による工業廃水中のメチル水銀を摂取した魚介を食したことで、中毒症状を起こした水俣病。1956年に公式確認されたにも関わらず、70年近くも被害認定や責任の所在をめぐり終息が見えない日本最大の公害病だ。1959 年、厚生省の食品衛生調査会の水俣食中毒特別部会が開かれ、水俣病の原因は湾周辺の魚介類に取り込まれたある種の有機水銀化合物という中間答申をした。それを立証した熊本大学の研究は、水俣湾の有機水銀の出所はチッソ工場以外にありえない、というもの。だが通産大臣だった池田勇人が閣議で、「工場から流出したとする結論は早計。軽々しく発言してはならない」と圧力をかけ部会は即時解散。恐らく高度経済成長の足かせになりかねない事態を懸念し幕引きを図ろうとしたのだろう。政治力によるくびきが影響し、その後もチッソは工場廃液をたれ流し、水俣病患者を増やし続けた。そして時の政権の意に沿う形で、東大医学部を頂点とする学閥の御用学者たちが、水俣病終焉を喧伝する。いわゆる曲学阿世の徒を最首は名指しし、犯罪に加担してきたことを糾弾した。

 最首が水俣病調査に関わったのは、不知火海総合学術調査団の初代団長を務めた歴史家の色川大吉(2021年逝去)と、小説『苦界浄土』で水俣病を告発した作家・石牟礼道子(2018年逝去)に依頼されたからだ。民間の有識者で結成した第一次不知火海総合学術調査団に参加したのは、生物学者としての見地が求められたからである。科学者として学問の世界に足を踏み入れた最首だが、現在は哲学や文学の領域まで含めた思想家というのが相応しいだろう。 

やまゆり園事件が象徴する社会の偏見と差別に向き合う

 最首の新著『いのちの言の葉 やまゆり園事件・植松聖死刑囚へ生きる意味を問い続けた60通』(春秋社)は、2016年に神奈川県相模原市の県立障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者を次々と刺殺した元職員の植松との往復書簡が端緒となる。植松と面会もした最首は、〝社会に迷惑をかける障害者はいらない〟という犯行動機が、決して植松だけの特殊な考えではないと感じた。物質文明の発達で効率ばかり優先するどこか歪な社会構造を看過できず、ネットメディアの連載を通じて、どうすれば誰もが抱えうる差別意識と偏見を乗り超えられるのか問いかける。

 連載スタート時は、植松が障害者を「心を失った者」「化け物」と表現したことを受け、厳密な言葉の語義をひもときながら、優生思想の本質を説く。〝無能者を保護することが国家財政を圧迫し社会を生き詰まらせる〟という主張に対し、最首は「世迷いごととして無視するわけにはいかない」と憤然たる態度を示しながらも、決して声高ではなく、「人間は表現手段を100%失われても、それで心がなくなったとは言い切れない」と反論。

 ひとつの言葉がきっかけとなり、最首が蓄積してきた膨大な知識から、飛び火するように次のテーマへと連鎖していく。学問へのこころざしが生物学だったので、「スタンフォード・ピネー式知能検査」「ミラーニューロンの発見」「トーマス・クーンのパラダイムチェンジ」「ペンフィールドの脳実験」「コンラート・ローレンツの刷り込み」など科学史を彩るエポックメーキングを紹介。かと思えば、デカルトやバートランド・ラッセル、チョムスキーの哲学的考察、ベケットの『ゴドーを待ちながら』やヘミングウェイの『日はまた昇る』をはじめ、芭蕉、漱石、鴎外、中原中也、宮沢賢治、森有正、川端康成、司馬遼太郎、高見順ら内外を問わない文学・哲学者の表現、親鸞の「悪人正機」や聖職者としての内村鑑三、コーランなど宗教の思想、果ては映画『心の旅路』やドラマ『ミステリと言う勿れ』など古い作品から最近のエンターテインメントまで縦横無尽に俎上に載せ、それが最首の紡ぐ思索の連環となる。さながら最首が歩んだ旅路のエッセンスが詰まった内容になっている。

 現在87歳の最首は毎日ツイッター(現X)で発信する。日々の思いや、渉猟してきたあらゆるフィールドの書籍からの発見を、瑞々しい感性で伝えようとする。「僕は学者だなんて大層なものじゃないし、教授って柄でもない」。社会の理不尽さに直面したとき、やむにやまれず首を突っ込んでいく。最首悟の生き方の根底にあるのは、権威に媚びない`万年助手‘の矜持かもしれない。

横浜市旭区の最首悟氏自宅にて







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