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こころはどう捉えられてきたか 江戸思想史散策 田尻祐一郎

  ひとり遅れの読書みち       第5号

    「こころ」という視角から江戸時代の思想を捉えようとの試みである。ともすれば「封建的な道徳や無味乾燥の教学で埋め尽くされている」と思われている思想家たち。語句が難しかったりして、ちょっと敬遠したくなるが、著者は「あまり構えないで、気ままに江戸時代の思想史を覗(のぞ)いてみよう」と筆をとったという。
    「こころ」をめぐっては、当時の人も今日の私たちと同じように考えていた面があり、今日と同様な問題にぶつかっていたことがわかってくる。また私たちに響き合うような「思索の遺産」を残してくれている。
    著者によると、国学者の本居宣長は、『源氏物語』や『古事記』の研究を深めて、「こころ」は愚かしいもので、そもそも人間の理知や意志の及ばない不可解なものだとし、人情のはかなさやしどけなさに通じることでこそ「物のあわれ」を知ることができると論じた。
    そして「こころ」の本来の姿がもっとも痛切に表れるのは「恋」においてであり、その中では「自分の確かさ」は激しく揺さぶられ「自分というものの輪郭」が自分も捉えられなくなってしまうと見る。さらに、人情のもっとも深く切実なものこそが「不倫の恋」だとし、そこから「感情深き歌」が生まれるとの洞察を明らかにする。
    一方、儒学者の多くは、本来の「こころ」を探ることで現実の自己を乗り越える力を得ようと教え、またそれをすすめてきた。チリひとつない清い澄みきった「鏡」が本来の姿であって、チリや曇りを晴らそう努めることが、勤勉、倹約、孝行、謙譲といった道徳の実践につながるというのだ。確かにその力は、日本の近代化を深部で支えてきたともいえる。
    しかし「こころ」本来の姿に近づこうとの努力、あるいは「頑張る」という発想は、いろいろな問題を抱えることにもなる。ひとりひとりの生において「深刻な困難」を与え、また社会の在りかたにも「歪み」をもたらす危険性もある。
    夏目漱石の代表作「こころ」は、先生の自殺という事件を通して、本来の「こころ」にいたる道が絶望的に遠いことを示した。
    宣長は「理詰めに構築された作為的な儒教体制が、実際には社会を混乱させ弱体化させている」と見ている。
    こうして著者は「こころ」を縦横無尽に切り込んでいく。「江戸思想史散策」という副題をつけて、気軽に町を散歩するような感覚で「思想」を説明してくれる。だが、奥は深く興味は尽きない。
    

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