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『西行 歌と旅と人生』寺澤行忠

ひとり遅れの読書みち   第20号



    老若男女を問わず多くの人々が心惹かれる歌人西行について、「実証に基づき、文化史の中で改めて光を当て」「新しいひとつの西行像の彫琢」を試みる。数多くの西行の歌を書き込み、わかりやすい言葉で訳文を添えた。歌の背景や状況などをていねいに解説しており、読み進むにつれて西行の全体像が次第に浮き上がってくる。西行を愛好する人にとって必読の書と言えるだろう。

    西行は藤原俊成や定家とともに新古今時代を代表する歌人であり、『新古今和歌集』には、定家ら歌の専門家をはるかに上回る最多の94首が選入されている。出家して仏道の修行に励むとともに、旅の魅力を発見し、桜の美しさを多くの人々に伝えた。その「生き方」に人を惹き付けるものがある。
    西行の生きたのは、貴族の支配する時代から武士の時代へと移行するとき。社会が激しく流動する困難な時代だった。戦いの場では人の死は日常的だった。人は常に変わらないものを求めつつ、現実は絶えずそれが裏切られる。人生は無常なのである。
    西行は人生が無常であることを「全身で受けとめ」「強い意志で自己を貫き」「深い抒情とすぐれた表現力」で「自己を十全に表現した」と、著者は評価する。「人生無常の思い」が、西行の歌に流れる「通奏低音」と分析し、「人生無常の自覚を促し、それを乗り込える道があること」を力強く示した。そこに人間的な魅力があり、人は惹かれる。著者は西行を「歴史上の巨人」と位置付ける。
    生涯の生き方を決定した最大の転機である出家をした理由について、著者は、西行自身が明確に語っていないことから、いくつもの要因が重なったものと指摘するにとどめる。

呉竹の節しげからぬ世なりせば  この君はとてさし出でなまし

(もし世の中に憂きことがこれほど多くないならば、この君にこそはと言って、さし出てお仕えしようものを)

悪し善しを思ひわくこそ苦しけれ  ただあらるればあられける身を

(善悪を分別する心があるのは、苦しいことだ。そのようなことに無関心であれば、それなりに生きていける身であるのに)

    著者はこのふたつの歌を西行の出家前後の心境を詠んだものと見て、現実が「呉竹の節しげ」き世であり、自らが「悪と善を思ひわく」ゆえに出家せざるを得なかったと説明している。「物事の理非曲直」を分別するがゆえに、現状にとどまることが自らに許せなかったのだという。

    また西行は旅に多くの日々を送った。2度にわたる奥州行脚、西国、四国への旅、高野と都や吉野の間の往来、熊野、伊勢、難波への旅などだ。当時、道はあまり整備されておらず、追い剥ぎなどの危険もあった。楽しいものではない。ただ日常を離れ「精神の自由」を確保しようとしたことはうかがえる。後世の「楽しむ旅」の先駆けとは言えるだろう。江戸時代の俳人松尾芭蕉が、西行に傾倒してその足跡を慕って各地を巡ったことはよく知られている。

    一方、山里の草庵における修行生活は、雨露を凌ぐ程度の粗末な小屋での暮らしであり、幾日も人と顔を合わせることなくひたすら「自己と向かい合っていた」もので「誠に寂しいもの」だったと指摘する。
    夜ともなれば、深い闇に閉ざされ、身を切るような孤独の中、「風や引板や水の音にじっと耳を傾け、小さな動物たちと心通わせた」。月の夜には「月を眺めて思念を凝らし、時には月に向かって一晩中涙する」という生活だった。草庵生活は「楽しむ」どころか「孤独かつ苛酷」なもの。しかも修行は、周囲によって評価されるものでもない。

世の中を思へばなべて散る花の  わが身をさてもいづちかもせむ

(世の理を思えば、すべては散る花のごとくはかない存在である。それにしてもこのわが身をどこへもっていけばよいのだろうか)

    「心を深く悩ませる」歌として定家が高く評価したもの。「仏道修行と作家修行を通じて、我と我が身を苦しめる呪縛から自らを放ち、真の精神の自由を獲得する」ことこそ、西行が出家によって目指したものと、著者は洞察する。
    西行は30年間高野山にこもった。大峰山でも修行した。肉体を徹底的に痛めつける修験道だ。神道に対する信仰にも厚いものがあった。伊勢に7年ほど滞在して神宮の神官たちに歌の指導をしている。晩年には、これまで詠んできた作品の中から秀歌を撰び、正続2編の自歌合せを結構して、伊勢神宮に奉納した。いわば「人生の総決算」と言えるもので、それぞれ36番72首づつをもって構成され、前者の判を藤原俊成に、後者を定家に依頼している。仏教と神道を結びつける本地垂迹思想を、結果的には強力に推進したことにもなると、著者は見る。

    さらに著者は、西行においては、「仏道修行と作歌修行は密接不可分のもの」だったと述べ、歌人としても、年齢を加えるにしたがって「成熟」を示していると強調する。とくに『山家集』成立後示寂(死去)するまでの10年あまりに多数の秀歌が詠まれている事実に注目する。歌人として高い評価を受けるようになったのは、比較的晩年になってからのことだという。
    西行は69歳という、今日でも高齢と言える歳になって、2回目の奥州旅行に出た。東大寺大仏殿再建の勧進のためだ。その途中、遠江国にさしかかったときに詠んだ歌が次の有名な歌。
 

年たけてまた越ゆべしとは思ひきや  命なりけり小夜の中山

(年をとって再び越えることがあると思ったであろうか。思いはしなかった。命があったからなのだ今越える小夜の中山よ)
    「命なりけり」の一句に「命というものに対する深い感動」を込めている。
    さらに富士の山を眺めて歌った

風になびく富士の煙の空に消えて  行方も知らぬわが思ひかな

(風になびく富士の煙は、空に消えて行方も知られない。ちょうどそのように、私の思いも、行方が分からなくなることだ)

    「わが思ひ」の一語に「70年近い人生の万感の思い」を託している。西行は「わが第一の自嘆歌」と言う。「歌いたいものを歌い切った」という強い思いがあったのではないかと、著者はこれを「生涯の絶唱」と賞賛する。

    著者の寺澤行忠氏は、全国に散在する数百本ある西行歌集の写本や版本を閲覧調査して校本を作成する作業に約30年間携わってきた。西行が詠んだ歌の「本来の姿」を見定める研究であり、その研究に裏打ちされた著者の言葉には大変な重みがある。

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